瀬々之浦の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 23:22 UTC 版)
瀬々之浦という地名は江戸時代より見え、薩摩国甑島郡甑島郷(外城)のうちの瀬々之浦村であった。1471年に朝鮮で刊行された海東諸国紀によれば「世々九浦」は瀬々野浦のことを指しており、記述のうち九は乃の誤字とされる。「元禄国絵図」には下甑村の一部として「瀬々ノ浦村」と記載されている。村高は「旧高旧領取調帳」では161石余、「三州御治世要覧」によれば100石余であったと記録されている。 江戸時代の測量家である伊能忠敬が著した「九州東海辺沿海村順」によると家数が210であり、「伊能忠敬測量日記」によれば内ノ河内(現在の内川内地区)の人家は20軒程度あったと記されている。 瀬々野浦地区は「下甑町郷土誌」によればいつから人が居住していたかについては定かでないとされているが、古町川の河川改修工事において弥生時代中期ごろの土器片が発掘されている。他の甑島の集落の状況から考えると早い時期には人が居住していたのではないかと推測されている。内川内地区は18世紀の初めごろに瀬々野浦からの6戸が移住したことに始まり、さらに24戸が移住したとされている。 江戸時代後期に薩摩藩が編纂した地誌である『三国名勝図会』では瀬々野浦の浦町である瀬々浦について以下のように記述している。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}下甑村尓あり、俗に志々浦ともいふ、シセ通音とす、海東諸國記に世々九浦は、盖是也、九は乃の誤ならん、此浦は下甑の西面にして、斷岸絶壁、千石直立し、奇巖怪石萬態の異觀なり、海岸より五歩許、海中に中礁チウセといへるあり、高さ六十間、周廻二町許、孤立して奇高なり、此邊波浪急激にして、漁船も風和を得て過くべし、又此浦人居の海渚より海上二町許に、玄礁鷹巣礁といへる、雙嵓ありて、海門の如く相並ぶ、兩礁共に高さ五十間、周廻各一町許、兩礁相距ること二三間、兩礁の間、舟往來して、景狀特に奇なりと可、此等下甑第一の絶勝なり —三国名勝図会第三十巻 また、内川内海岸にある八艘穴についても以下のとおり記述されている。 下甑村内、瀬々浦の海岸にあり、窟穴西に向ふ、其大さ漁船八艘を泊すべし、大風といへども、少しも患へなし、因て八艘穴といふ、窟中に船を入て舷を扣けば、大に響こと雷の如く、洞巖崩るゝに似たり、故に衆人恐怖して、船を泊する者なしといふ —三国名勝図会第三十巻
※この「瀬々之浦の成立」の解説は、「下甑町瀬々野浦」の解説の一部です。
「瀬々之浦の成立」を含む「下甑町瀬々野浦」の記事については、「下甑町瀬々野浦」の概要を参照ください。
- 瀬々之浦の成立のページへのリンク