渡米と帰国後の大バッシング
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 03:28 UTC 版)
「田中絹代」の記事における「渡米と帰国後の大バッシング」の解説
1949年10月21日から日米親善使節として渡米し、約3ヶ月間の滞在中にハワイやハリウッドを巡り50回以上の公演をこなした。ハワイでは各地で歓迎のレイを首にかけられ、戦時下で差別された日系人からもひときわ大きな熱烈歓迎を受けたという。ハリウッドでは映画スタジオなどを見学してベティ・デイヴィス、シルヴィア・シドニーらと会い、ジョーン・クロフォードの撮影などを見学したり、当時の先端的なメイク法も教わった。 翌1950年(昭和25年)1月19日に帰国した。出発時は豪華な古代ものを使った小袖姿 だったが、帰国時は茶と白のアフタヌーンドレスと毛皮のハーフコート、緑のサングラスにハワイ土産のレイをまとって登場。報道陣らには「ハロー」と一声発し、銀座のパレードで投げキッスを連発。この姿と行為で渡米を後援した毎日新聞社を除くメディアから「アメリカかぶれ」と叩かれ、一部のメディアからは「アメション女優」などと形容された。 一方田中のファンたちも「アメリカに毒された」と猛反発し、「銃後を守る気丈な日本女性」 のイメージを確立していた国民的女優の突然の変身に、敗戦に打ちひしがれ貧困の状態にあった国民は戸惑い、同時に憤りをかきたてることになり、田中はそれ以降自殺を考えるほどのスランプに陥った。さらに1951年(昭和26年)には、映画雑誌『近代映画』のスター人気投票の女優部門で10位以内にも入らずトップスターの地位を失った。当時田中は、知人に「ファンレターが1通も来なくなった」と漏らしていたという。
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