渡米と成功
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/19 05:04 UTC 版)
ダービー卿のもとにはすでに同馬の父ファラリスのほか、ファロスやフェアウェイ、そして同馬の全兄シックルなど種牡馬は十分にあった。そこでダービー卿はファラモンドを競りに出品、10000ポンド(当時のレートで50000ドル)の値をつけた。 この競り会場の来場者のひとりに、アメリカケンタッキー州の生産者であるハル・プライス・ヘッドリーがいた。ヘッドリーは他のアメリカ人生産者と共同で小規模なシンジケートを結成し、その代表としてファラモンドの購入に当たった。そして交渉の結果、付けられていた値札よりも安く、4000ポンドで取引を纏めることに成功した。 ヘッドリーは後にエイブラム・ヒューイットのインタビューに対し、この取引について「それは晩秋か初冬のこと、ほとんど真っ暗になった夕べのことで、黒塗りの馬房のなかにいるファラモンドが膝の高さほどに積まれた藁の上に立っている、ということが辛うじて確認できる程度であった。私はあえてこの馬を外で見せて欲しいと頼まなかったが、それは私はどれほどこの馬に興味をひかれているのかを、ダービー卿の使いに知られたくなかったからであった。」と懐述している。 ファラモンドは1928年にアメリカへと輸出され、ヘッドリーの持つボーモントファームに繋養された。当時のアメリカには同名の馬が存在していたため、ファラモンドはもっぱら「ファラモンドII(Pharamond II)」と呼ばれるようになった。 かくしてヘッドリーのもとで種牡馬生活に入ったファラモンドは、ヘッドリーと牧場に多大な貢献をもたらした。生涯で送り出した399頭の競走馬のうち、35頭がステークス競走で勝ちを挙げたのである。 初年度の産駒はまったく走らず、このため1932年に早くもシンジケートは解散し、7500ドルの価格でヘッドリーが権利を完全に買い上げることになった。しかし翌年の世代からはハイグリー(1931年生・牝馬)を始めとした良い産駒に恵まれるようになっていった。 その後もリーディングサイアーにこそならなかったが、1938年には同じくアメリカに輸入されて大活躍していたシックルに迫る2位に入っている。 ファラモンドは最期までボーモントファームで余生を過ごし、1952年7月に27歳で死亡した。遺骸は同牧場に葬られたが、ボーモントファームは後に規模を縮小し、納屋やパドックを含む大部分を売却しており、現在その墓は住宅地や商業地に近い場所にある。
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