渡海準備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/15 02:36 UTC 版)
1688年6月30日、ジェームズ誕生に危機感を抱いた7人の貴族(シュルーズベリー伯チャールズ・タルボット、デヴォンシャー伯ウィリアム・キャヴェンディッシュ、ダンビー伯トマス・オズボーン、ラムリー男爵リチャード・ラムリー、ロンドン主教ヘンリー・コンプトン、エドワード・ラッセル、ヘンリー・シドニー)から招請状を受けたウィレム3世はイングランド議会の要請に同意したものの、渡海は軍備の充実及びオランダの守備とフランスの動向を見極めてからにした。フランスに不在中のオランダを攻め込まれる恐れがあったからである。 7月から準備が始まり、9月にウィレム3世は各ドイツ諸侯を訪問して援軍提供を取り付け、オランダの防衛はヴァルデック侯ゲオルク・フリードリヒに任せて自ら遠征に向かうことにした。ルイ14世は9月25日にドイツのプファルツを含むライン河方面にフランス軍を差し向けて大同盟戦争を始め、ウィレム3世はフランス軍のオランダへの即時遠征がないと判断し、9月29日にホラント州でイングランド遠征計画を発表した。ホラント州は遠征計画に賛成、10月8日に連邦議会も全会一致で賛成した。10月9日にウィレム3世は上陸は英国国民の権利を回復するものであるという趣旨のパンフレットを大量に印刷して極秘に保管し、着々と上陸の準備を整えていった。 遠征軍はウィレム3世が司令官で副司令官はフレデリック・ションバーグが務め、艦隊司令官はアーサー・ハーバートが選ばれ、招請状を送った7人の内シュルーズベリー・ラッセル・シドニーの3人が同行、1686年から挙兵を訴えていたチャールズ・モードントやスコットランド人聖職者のギルバート・バーネット、腹心で遠征の準備を整えていたウィリアム・ベンティンクも遠征に加わり、残りの招請者はイングランドで待機して支持者を広めたり地方を押さえる役目を担った。一方のジェームズ2世もカトリック政策を撤回、オランダ軍の遠征を発表してオランダへの警戒と国土防衛を呼びかけたが、周囲はオランダ軍遠征で動揺が広がっていた。
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