海戦時の司令・艦長らのその後
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「7月5日の海戦 (1942年)」の記事における「海戦時の司令・艦長らのその後」の解説
1942年(昭和17年)7月5日の時点で、第18駆逐隊は駆逐隊司令宮坂義登大佐(司令駆逐艦不知火)、不知火駆逐艦長赤澤次壽雄中佐、霞駆逐艦長戸村清中佐、陽炎駆逐艦長有本輝美智中佐、霰駆逐艦長緒方友兄中佐であった。宮坂司令は短剣で自殺をはかったが、千代田に収容されて一命をとりとめた。7月14日附で宮坂大佐は第18駆逐隊司令職を解かれた(7月28日附で呉鎮守府附)。翌1943年(昭和18年)3月20日、宮坂は阿部弘毅少将(第三次ソロモン海戦時、第十一戦隊司令官)、西田正雄大佐(戦艦比叡沈没時艦長)達と共に予備役へ編入、即日召集された。 不知火駆逐艦長の赤澤中佐は、建造中の秋月型駆逐艦涼月の艤装員長に任命され、竣工と共に同艦初代駆逐艦長となった。1944年(昭和19年)1月10日に涼月艦長を退任したあと、3月20日附で第10駆逐隊司令に任命される。6月8日、司令駆逐艦(夕雲型)風雲が米ガトー級潜水艦ヘイク (USS Hake, SS-256) に撃沈された時、赤澤も戦死した。 陽炎駆逐艦長の有本中佐は、その後も陽炎艦長としてガダルカナル島の戦いに従事した。1943年(昭和18年)5月8日、第15駆逐隊(親潮、黒潮、陽炎)が機雷によって3隻とも沈没すると、6月1日附で陽炎駆逐艦長の任を解かれた。 霞駆逐艦長の戸村中佐は8月20日附で朝潮型駆逐艦満潮艦長に任命された。その後、駆逐艦谷風艦長や重巡洋艦摩耶副長を経て、1944年(昭和19年)2月15日からは第6駆逐隊司令となる。かつて霞を曳航した駆逐艦電が6月11日にアメリカ潜水艦ボーンフィッシュ (USS Bonefish, SS-223) の雷撃で撃沈された時も、第6駆逐隊司令であった。 霰駆逐艦長の緒方中佐は7月31日附で霰駆逐艦長の職務を解かれ、第56駆潜隊司令を経て翌年4月より軽巡洋艦木曾副長となりキスカ島撤退作戦に参加した。同年10月18日より秋月型駆逐艦秋月二代目駆逐艦長等を歴任した。
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