海岸部での戦闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/11/23 03:38 UTC 版)
「北部戦線 (アメリカ独立戦争のサラトガ以降)」の記事における「海岸部での戦闘」の解説
1777年以降、北部の海岸では大きな軍事行動は無かった。ただしイギリス軍はコネチカットやマサチューセッツの海岸部にある地域社会に対して一連の襲撃を敢行した。1778年5月のロードアイランド邦ブリストルとウォーレンへの襲撃、さらにマサチューセッツ邦フリータウンでの小戦闘(マウントホープ湾襲撃)、同年9月に同じくマサチューセッツ邦ニューベッドフォードとマーサズ・ヴィニヤードに対してグレイ将軍が率いた襲撃(グレイの襲撃)、1779年のウィリアム・タイロンが率いたコネチカット海岸への一連の襲撃があった。最も激しかった襲撃は1781年のニューロンドンに対するもの(グロトンハイツの戦い)であり、イギリス軍に寝返ったベネディクト・アーノルド将軍が率いたものだった。 ロードアイランドとマサチューセッツ邦のメイン地区で数少ない大規模戦闘が起こった。その最初のものはアメリカ軍とフランス軍が連合でロードアイランド邦ニューポートからイギリス軍を追い出そうとした作戦だった。1778年8月、この作戦は悪天候と意思疎通のお粗末さに災いされ、フランス軍が上陸を果たすこともなく、その目的を果たさずに終わった(ロードアイランドの戦い)。 1778年の夏、ロンドンのイギリス軍参謀はペノブスコット湾に新しくロイヤリストの開拓地を建設する作戦を立て始めた。そのための遠征隊は1779年初期に編成され、5月30日、軍隊と物資を積んだ艦隊がノバスコシアのハリファックスを出港した。イギリス軍は2週間後に目的地に到着し、湾の東側に一連の防御施設を構築した。マサチューセッツ邦は大陸会議からの支援がほとんど無いままにイギリス軍を追い出すための遠征隊を編成した。この遠征隊は、その艦隊が全て破壊され、遠征隊の半数は戦死、捕虜または負傷するという悲惨な結果に終わった(ペノブスコット遠征)。これは20世紀に入るまでアメリカ海軍にとって最悪の敗北となった。この遠征の失敗は陸軍と海軍のあいだの命令体系がうまく取り決められていなかったことに帰せられており、また救援のために到着したイギリス艦隊と戦ったダドリー・サルトンストール代将の失敗もあった。
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