浦上氏・三村氏との戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 21:24 UTC 版)
輝元と信長の関係は依然として保たれていた。だが、信長は毛利氏との全面戦争は避けていたが、毛利氏を牽制するために重要な布石を打った。それは天正元年12月に浦上宗景に備前・播磨・美作の統治を認める朱印状を出したことであった。 浦上宗景は備前・播磨・美作に広域的権力を保持し、永禄末年から毛利氏と交戦していたが、元亀3年に毛利氏に従属する形で和睦していた。それゆえ、浦上氏は毛利氏の従属下にあり、備前・播磨・美作は毛利氏の領国であると考えられていた。だが、信長が宗景に備前・播磨・美作の統治を認めたことは、毛利氏にとっては想定外であった。備前・播磨・美作が毛利氏の領国であるとするならば、所領の安堵は輝元の権限であり、信長にその権限はなく、信長の行為は備前・播磨・美作を織田氏の分国に加えるに等しい行為であった。 輝元と同様に、浦上宗景と対立する宇喜多直家にとっても、宗景の備前・播磨・美作における統治権を認めることはできなかった。直家は永禄12年(1569年)以降、宗景の従属下を脱してほぼ対等の関係にあったが、信長の朱印状によって宗景の備前・播磨・美作の統治権を認めるということは、宗景の支配下に入ることを自ら認めることに他ならなかった。 天正2年(1574年)3月以降、宇喜多氏が浦上氏と敵対関係に入ると、5月に輝元は直家への支援を表明した。輝元としては、宗景の毛利氏への態度が二転三転して不信感を募らせたことや、宇喜多氏が信長の勢力拡大に対する防潮堤の役割を果たすと考えたことが、直家への支援に繋がったと考えられる。 一方、宗景は輝元や直家に対抗するため、毛利氏と長らく敵対していた大友氏から支援を受け、さらに毛利氏から離反した備中の三村元親と連携しようとした。三村氏は毛利氏に軍事的には従属していたものの、自立性の高い国人領主であった。元親は父で先代の当主・家親を直家に殺害されており、輝元がその直家の支援に踏み切ったことが、毛利氏からの離反に繋がった。また、元親は浦上氏を通じて信長から支援があると考えていた。ただし、元親の叔父・親成は毛利方にとどまっており、毛利氏の調略があったと考えられている。 天正3年(1575年)6月、毛利氏は三村元親を攻め滅ぼし、同年9月には浦上宗景が居城・天神山城から追われて播磨に逃れ、この軍事衝突は毛利氏の勝利に終わった。三村氏の旧領は毛利氏が直接的に支配する地域に入り、輝元は元就を上回る領域支配者となった。 他方、浦上氏や三村氏が期待していた信長から援軍は送られなかった。信長は毛利氏を牽制したものの、毛利氏との断交はまだ早いと考えており、表面的に継続していた軍事同盟を維持する形を取った。 輝元は備前・播磨・美作を織田氏の領国に組み込もうとする信長の目論見を砕こうとしたが、信長との直接対決は望まず、あえて信長の朱印状発給に反発した直家を宗景と戦わせる道を選んだ。輝元は織田氏との軍事同盟を維持する道を選んだが、その過程で毛利氏に長年付き従ってきた三村氏の離反もやむを得ないと考えていた推測される。 とはいえ、浦上氏の領国が消え、宇喜多氏の領国を含む毛利氏の領国は織田氏の領国と直接境界を接することとなった。これにより、信長との対決は目前に迫った。
※この「浦上氏・三村氏との戦い」の解説は、「毛利輝元」の解説の一部です。
「浦上氏・三村氏との戦い」を含む「毛利輝元」の記事については、「毛利輝元」の概要を参照ください。
- 浦上氏三村氏との戦いのページへのリンク