浜松東映劇場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 08:01 UTC 版)
かつての浜松市は繊維産業の町として発展し、やがてヤマハや河合楽器などの楽器製造、スズキやヤマハなどの輸送機器製造の町として発展した。中心市街地である田町や肴町付近には、かつて十数館の映画館が軒を連ねて映画街を形成していた。1953年(昭和28年)の浜松市には8館の映画館があり、その内訳は田町・肴町・鍛冶町・板屋町の4町に2館ずつだった。 全国の映画館数がピークを迎えたのは1960年(昭和35年)である。この年の浜松市には24館もの映画館があり、田町に3館、肴町に5館、鍛冶町に6館、板屋町に3館が集中していた。1968年には協和が4スクリーンの浜松中央ビル(浜松中央劇場)を田町に建設、浜松中央劇場は静岡県における複合館の先駆けだった。板屋町にあった浜松東映劇場は東映の直営館であり、同一ビルの2階にはフランス映画社などアート系の作品を上映するスバル座があった。 1988年11月、浜松東映劇場は板屋町から田町の笠井屋ビル3階に移転した。当時の浜松市では浜松東映劇場を含めて9の映画館が営業している。笠井屋ビルでは4階で浜松東映パラス劇場も営業していたが、浜松東映パラス劇場はわずか4年間で営業を終えている。浜松東映劇場が移転したことで、板屋町時代に同一ビルにあったスバル座が1989年5月28日に閉館。浜松市でアート系の映画が観られなくなることが懸念された。 そこで移転後の浜松東映劇場は自主上映団体の上映会に協力し、東映作品の上映を終了した夜間に自主上映会「ムーンライトシアター」(1989年6月開始)を行っていた。配給会社との交渉は浜松東映劇場支配人の榎本雅之が一手に引き受け、単館系の良作を約20年間で約1,000本上映した。1997年頃には自主上映の際に映画監督の瀬々敬久が浜松東映劇場を訪れた。 2000年11月20日にはヴァージンシネマズが日本における4号店として、田町からほど近い鍛冶町のザザシティ浜松に9スクリーンのシネマコンプレックス、ヴァージンシネマズ浜松(現・TOHOシネマズ浜松)を開館させた。2000年頃の浜松市には浜松東映劇場のほかに、ヴァージンシネマズ浜松、浜松中央劇場(田町・3スクリーン)、宝塚劇場(田町・東宝系)、松菱映画(肴町)、テアトル有楽(田町)などが存在したが、TOHOシネマズ浜松に客を奪われる形で2000年代後半までに次々と閉館している。 浜松東映劇場は最後まで浜松に残った従来館だったが、建物の契約更新を機に2008年10月3日に閉館となった。シネコンの隆盛で観客数が低迷したことも理由だった。最終上映作品は『フライング☆ラビッツ』(瀬々敬久監督)。これによって静岡県内から東映の直営映画館が姿を消したが、東映作品はTOHOシネマズ サンストリート浜北やTOHOシネマズ浜松で上映されている。
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