流刑地からの脱出、ヨーロッパへの帰還とは? わかりやすく解説

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流刑地からの脱出、ヨーロッパへの帰還

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 17:10 UTC 版)

ミハイル・バクーニン」の記事における「流刑地からの脱出、ヨーロッパへの帰還」の解説

1861年6月5日バクーニンイルクーツクを後にした。シベリア商人から依頼され仕事ニコラエフスクへ向かうという名目であった7月17日にはロシア軍艦ストレローク号に乗船してデ=カストリへ向かうつもりだったが、オリガ港に到着した後、蒸気船ヴィッカリー号の船長説き伏せてこれに乗り込んだ船上ではロシア領事遭遇するものの、バクーニンロシア帝国海軍眼前をなんとか通過することができた。8月6日には北海道箱館函館)に上陸その後間もなく横浜到着した日本ではドレスデン蜂起で共に戦ったヴィルヘルム・ハイネと偶然再会しているほか、ドイツ植物学者シーボルトとも会っている。シーボルト日本開国まつわる動き(特に対露、対オランダ)に関与しており、またバクーニン後見人ムラヴィヨフ友人でもあった。シーボルト息子アレクサンダー・フォン・シーボルトはこの40年後に当時振り返り横浜滞在中のバクーニンハイネについて書き残している。 バクーニン蒸気船カーリントン号で神奈川から出航。この船の乗客19人で、他にはハイネ牧師のP.F.コウ (P.F.Koe)、浜田彦蔵(ジョセフ・ヒコ)がいた。ヒコ帰化アメリカ人で、8年後の明治維新期には木戸孝允伊藤博文政治に関する助言を行うなど、重要な役割を果たすことになる。カーリントン号は10月15日サンフランシスコ到着大陸横断鉄道はまだ開通しておらず、ニューヨークへ行くにはパナマ経由するがもっと早かったバクーニンはオリザバ号でパナマへ向かい2週間待ってチャンピオン号に乗船ニューヨーク赴いたボストンでは、パリ二月革命でミエロスワフスキーの勢力にいたカロル・フォースターのもとを訪れ、フリードリヒ・カップなど、1848年革命立ち上がったいわゆる48年組」の面々とも出会ったその後バクーニンはふたたび船出し12月27日イギリスリバプール到着直ちロンドンへ向かいゲルツェン会っている。一家夕食とってい最中応接間へと押しかけ、「なんだ!牡蠣食べているのか!いいじゃないか!色々教えてくれないか、どこで何が起きてるんだい?」などと話したという。

※この「流刑地からの脱出、ヨーロッパへの帰還」の解説は、「ミハイル・バクーニン」の解説の一部です。
「流刑地からの脱出、ヨーロッパへの帰還」を含む「ミハイル・バクーニン」の記事については、「ミハイル・バクーニン」の概要を参照ください。

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