流刑の島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/30 01:28 UTC 版)
離島であるウスティカ島は、ブルボン家(シチリア王国、両シチリア王国)の統治下にあった時代から政治犯の流刑地とされた。これはイタリア統一後のイタリア王国の下でも変わらず、ファシスト党政権期にはベニート・ムッソリーニが政治的反対者をウスティカ島に追放した。島を流刑地として利用することは、第二次世界大戦後の1950年代まで続いた。 ウスティカ島に送られた政治犯の中で最も著名な人物は、イタリア共産党指導者・マルクス主義思想家のアントニオ・グラムシである(1926年の逮捕後しばらく島の刑務所に収容された)。このほか、アマデーオ・ボルディーガ(英語版)(イタリア共産党指導者)、ネッロ・ロッセッリ(英語版)(社会主義者)、フェルッチョ・パッリ(英語版)(パルチザン活動家、のち首相)もこの島への流刑を経験している。 ファシスト政権下では一度に1500人もの囚人(多くは同性愛者であった)が送り込まれたこともある。1940年代初頭にはユーゴスラビアにおける戦争捕虜が島に詰め込まれたが、彼らの間には栄養失調と結核が蔓延した。1950年代にはシチリア島のマフィアが島の囚人となった。 島への流刑は、1961年に島民の抗議を受ける形で廃止された。島では以後観光開発が進められることとなった。
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