流刑と日本軍政
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 09:44 UTC 版)
1934年2月、ハッタらインドネシア国民教育協会の幹部とともに逮捕され、イリアンジャヤのボーフェン・ディグール(現タナ・メラ)、バンダネイラ島に流刑となる。なお、この流刑期間中にオランダ人女性マリア・ドゥシャイゥーと結婚している(のちに離婚)。 太平洋戦争の開戦とともに日本軍がオランダ領東インドに侵攻すると、西ジャワのスカブミに収監されていたシャフリルも日本軍によって釈放された。太平洋戦争中の日本軍政期には、スカルノやハッタが軍政当局に協力することで民衆運動を指導したのとは対照的に、シャフリルは対日協力を拒否する姿勢を貫いた。そのため、当局によって反日組織との関係を疑われるが(実際にシャフリルは独立運動の地下活動を指導していた)、ハッタらの尽力により逮捕を免れた。なお、この時期、ハッタのすすめによって独立養成塾(Asrama Indonesia Merdeka)で講師をつとめている。
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