活動と晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/06 03:14 UTC 版)
1916年、徴兵法による徴兵制度の導入後、『The Voice of Labour』は、民間人の不服従についての記事を載せ、徴兵を逃れてスコットランドのハイランド地方に逃亡するよう読者に勧めた。この記事がきっかけで行なわれた『Freedom』関連施設の強制捜査の際には、事実上の伴侶であったトマス・キール(Thomas Keell)とともに逮捕された。彼らは起訴され、国土防衛法(Defence of the Realm Act)違反で有罪となった。ウルフには、25ポンドの罰金、または、2か月の懲役という判決が 下されたが、彼女は後者を選択した。このとき、100ポンドの罰金、または、3か月の懲役という判決が 下されたキールも、罰金刑ではなく懲役刑を選んだ。ウルフはこのとき既に40歳になっていたが、いったん収監された後で自分の妊娠に気づき、罰金を支払って釈放された。 1917年の時点で、ウルフはロンドンのマーシュ・ハウス(Marsh House)に、ネリー・ディック(Nellie Dick)、フレッド・ダン(Fred Dunn)、ガストン・マラン(Gaston Marin)と一緒に住んでいたが、1920年ころにはキールと、彼との間に生まれた息子、そして、W・C・オーウェン(W.C. Owen)と一緒に、ロンドン北西部のウィルズデン(Willesden)に、そして1920年代から1938年のキールの死まで、グロスタシャー州のトルストイ主義者の入植地ホワイトウェイ・コロニーに、それぞれ住んでいた。ホワイトウェイでウルフは、ジョージ・オーウェルがサナトリウムでの療養で面倒を見られない間、息子リチャード・ブレア(Richard Blair)の世話をしていた。ヴァーノン・リチャーズ(Vernon Richards)がスペイン内戦におけるアナキストたちを支援する立場から『Spain and the World』を創刊した際には、 既に60歳になっていたウルフが事務を引き受けた。当時、ウルフは、リチャーズとそのパートナーであるマリー=ルイーズ・バーネリ(Marie-Louise Berneri)のロンドンの住まいに身を寄せることがよくあった。高齢になってもウルフは政治活動に関わり続け、 90歳を超えても『Peace News』の販売に携わり、95歳までフリーダム・プレスの書店の責任者、事務担当として働いていた。 『Freedom』の百周年記念号で、アナキストの歴史家ニコラス・ウォルター(Nicolas Walter)は、ウルフのことを、「フリーダム・プレスの歴史において、半世紀以上にわたり、最も知られていない、しかし、最も重要な人物であった」と讃えた。
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