活動と末路
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/08 13:33 UTC 版)
「進歩党 (中華民国)」の記事における「活動と末路」の解説
3党の大同団結により結成された進歩党だが、内部では必ずしも意見統一がとれているわけではなかった。例えば、民主党出身の孫洪伊は、党務部副部長に任ぜられたものの、梁啓超の袁世凱に接近する姿勢に失望し、実際には進歩党に加わらなかった。また、民主党の有力者が中枢を占めていることに不満を抱いた旧共和党内のグループが、まもなく進歩党を離党して共和党(合併前の共和党と区別して「新共和党」と一般に呼ばれる)を結成したりしている。 進歩党は袁世凱政府を支持する政党ではあったが、第二革命(二次革命)後になると、国会に残留した国民党穏健派と連携することで、国会運営の円滑化を図るようになる。これを見た袁世凱は、1913年9月18日に新たな親袁御用政党として公民党(北京政府総統府秘書長梁士詒が指導者。梁士詒が属する交通系を主力とする)を結成させた。10月6日には、袁世凱と梁士詒の指示の下で軍・警察が国会議場を包囲する中で、袁世凱が正式に大総統に選出された。 進歩党はますます危惧を抱くようになり、同年10月21日には国民党・進歩党の有志が民憲党を結成する動きも見せた。しかし、11月4日に袁世凱が国民党籍の国会議員438人の議員資格を剥奪したため国会の開会が不可能となり、11月15日の正式な停会をもって進歩党は事実上崩壊した。 その後、梁啓超ら進歩党の有力幹部の多くは、1915年(民国4年)12月の袁世凱の皇帝即位に反発し、護国戦争を発動することになる。
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