治安六法の制定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/27 09:59 UTC 版)
セント・ピーターズ・フィールド(St. Peter's Field)で非武装の民衆が義勇騎兵団(Yeomanry)に殺害されたというピータールーの虐殺が起こると、多くの示威集会がイングランド北部で開催され、ミッドランズ(英語版)やローランズ(Lowlands)などイングランド中部、南部にも飛び火し、合計17州で示威が決行された。地元の治安判事が中央政府からの支援を求めると、議会は11月23日に開会、内務大臣の初代シドマス子爵ヘンリー・アディントンより治安六法の法案が提出された。ホイッグ党が法案の原則にもその詳しい内容にも反対したが、六法は12月29日までに議会を通過した。ブリタニカ百科事典第11版ではピータールーの虐殺以外にも、死期の近い国王ジョージ3世は国民の同情を得ていたが、摂政王太子ジョージにはそれがないことを治安六法が制定された理由の1つとしている。 法案は急進的な新聞紙の抑圧、大規模な集会の防止、そして(政府からみて)武装蜂起の可能性を減らすことを目的とした。庶民院での弁論ではトーリー党もホイッグ党もフランス革命を引き合いにし、トーリー党はフランスの治安の弱さを指摘、ホイッグ党は言論の自由と出版の自由の重要性を強調した。1818年イギリス総選挙(英語版)で党勢を回復したホイッグ党は機に乗じて法案の改正動議を提出、「非公開で行う集会は許可する」「屋外で行う集会の禁止は限時法とする」「新聞規制違反の容疑者を追放刑に処すことはより困難にする」など規制を緩ませることに成功した。ホイッグ党は法案自体にも反対したが、首相リヴァプール伯爵は法案を通過させることに成功した。
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