毒の起源
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/25 00:14 UTC 版)
考古学の成果によれば、原始人たちは斧や棍棒、すこし時代が下って剣を武器にするとともに、それらをより強力にし容易く命を奪うことができるようにする方法を求めていた。その答えが毒であった。ツボクラリン(ツヅラフジ科の植物の浸出液で、毒性を含んでいる)を蓄えもっておくような賢い人間たちはそれを狩りの道具として活用していた。初期のヒトが様々な効果をもつ毒を発見し、それを武器としていたことは明らかである。この奇妙なる毒物の存在とその使用法は部族や氏族の長老たちによって秘蔵されるとともに、偉大な力の象徴とみなされていたという考え方もある[誰によって?]。それは典型的な「呪医」(medicine man) や「魔女」(witch doctor) という概念の誕生でもあった。 毒の危険性とその扱い方が理解されるようになったのは、その危うさを味わった人間がいるからでもある。ポントスに君臨したミトリダテス4世は毒による暗殺に怯えながら一生を過ごした。彼は解毒の方法を求めて奔走した先駆者でもある。在位中のミトリダテス4世は死刑囚に毒を盛りつつ解毒薬の治験を行い、自分があらゆる毒への耐性をえることができるよう、なかば偏執的なまでに毎日いくつもの毒を試みた。ついに彼はわずかな量のハーブをいくつも調合することでこの時代もっとも有名になった治療薬を発見しており、ミトリダティウム (Mithridatium) と名づけられた。それは彼の王国がローマのグナエウス・ポンペイウスによって征服されるまで極秘の扱いを受けていた。ポンペイウスが勝利すると、ミトリダテス王の解毒薬の製法、および薬草の研究書はローマ人のものとなった。小プリニウスは7000以上もの毒について記述している。彼によれば、「ポントスの一地方で毒入りの餌を与えられていたとおぼしきアヒルの血、それが後にミトリダティウムの調製に用いられた。なぜならそのアヒルは毒入りの餌を食んでも、まったく健康であったのだ」。インドの外科医ススルタは遅効性の毒のまわり方とその治療薬について書き残しているが、やはり毒を返すための伝統的な素材を用いたこの解毒薬について語っている。
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