死後のチャンピオン決定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 01:34 UTC 版)
「ヨッヘン・リント」の記事における「死後のチャンピオン決定」の解説
1970年にはグラハム・ヒルの移籍によりロータスのエースドライバーに昇格。斬新なウェッジシェイプボディをまとうロータス・72を得て、念願のチャンピオン獲得に向け快進撃を見せる。 第3戦モナコGPではレース終盤に15秒先行するジャック・ブラバムを猛追し、ファイナルラップの最終コーナーで抜いて優勝するという歴史に残る大逆転劇を演じた(この時のマシンは旧型のロータス・49)。この周回で記録したファステストラップは自身の予選記録よりも2.7秒速く、ジャッキー・スチュワートのPPタイムさえ0.8秒上回っていた。ブラバムが優勝すると思っていた競技長のポール・フレールはチェッカーフラッグを振り忘れた。リントは表彰式でモナコのロイヤルファミリーから祝福され、男泣きした。 第5戦オランダGPでは親友ピアス・カレッジの事故死を乗り越え、ここから第8戦ドイツGPまで4連勝を記録した。イギリスGPではモナコGPを再現するように、最終ラップにガス欠を起こしたジャック・ブラバムをかわして優勝するというツキもあった。 モンツァで行われる第10戦イタリアGPを迎えた時点で、計5勝を挙げたリントはランキングで2位以下を大きく引き離し、残りの4レースどれかで優勝すればチャンピオンが決定するという状況だった。金曜日のプラクティスで、チャップマンとリントは空気抵抗を減らしトップスピードを上げるためウィングなしで走行することにした。リントのチームメートであったジョン・マイルスは、ウィングなしでの走行は「まっすぐに走らない」と不満を表していた。しかし、リントは「そのような問題はない」と報告した。チャップマンはリントがウィングなしだとストレートで800 rpm 速いと報告した。 9月5日の予選走行中、リントのロータス・72は最終コーナー「パラボリカ」手前のブレーキングで突然姿勢を乱し、コースアウトしてノーズからガードレールに激突。リントは両足が見えるほどに大破したマシンの中で死亡した。ほぼ即死の状態であったという。死亡時は28歳だった。 その後、大きくポイントでリードしていたリントを上回る者が現れないままシーズンが終了。ロータスに抜擢された新人エマーソン・フィッティパルディがリントの死後に予想外の好成績を挙げ、ライバルのポイント加算を妨げたのも亡きリントへの援護となった。 その年のドライバーズチャンピオンを誰にするかが議論となったが、結局ポイントリーダーであるリントをチャンピオンとすることになった。この年リントが獲得したポイントは、全て優勝によるものであった。皮肉なことに、リントは妻ニナにチャンピオンになったら引退すると約束していたという。墓はオーストリアのグラーツ市の中央墓地にある。 F1などモータースポーツでは前年度のチャンピオンがカーナンバー1を付けることが多いが、リントの死去に伴い翌1971年シーズンはカーナンバー1が欠番となり、ロータスのエマーソン・フィッティパルディがカーナンバー2を、レイネ・ウィセルがカーナンバー3を付けて開幕を迎えた。
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