死後のセルビア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/29 00:27 UTC 版)
「チャスラヴ・クロニミロヴィチ」の記事における「死後のセルビア」の解説
チャスラヴの没後は、『帝国統治論』でも言及された娘婿ティホミルがラシュカ(英語版)を統治したように、各地の貴族たちが自立し割拠した。 971年から976年の間に、東ローマ皇帝ヨハネス1世ツィミスケス (在位: 969年–976年)のもとで行政区画カテパナート・ティス・ラス(英語版)(ラシュカのカテパニキオン(英語版))が設置された。ここの総督(ストラテゴス)のヨハネス1世時代の印から、先代のニケフォロス2世フォカスの時代で既にラシュカに東ローマ帝国の支配が及んでいた可能性が見て取れる。ラスのプロトパタリオスとカテパノの地位には、ヨハネスという名の東ローマ帝国の総督が就いていた。ヨハネス1世時代のラスのカテパノの記録は残っていない。間もなく東ローマ帝国はブルガリア帝国との戦争(英語版)でラシュカを失い、1018年ごろに一時的に回復してテマ・シルミウム(英語版)を置いたものの、その領域はかつてのラシュカに及ばなかった。またチャスラヴ没後、ボスニアが新興勢力として台頭してきた。 990年代、ヨヴァン・ヴラディミル(英語版)がセルビア貴族の中で台頭した。彼はアドリア海沿いのバールを本拠地とし、トラヴニヤ(英語版)やザフムリェを含む、セルビア公国領だったポモリェ(英語版)(海岸地帯)のほとんどを支配下に置いた。彼の勢力はさらに西や北へ伸び、ザゴリェ (「後背地」の意、セルビアとボスニアの内陸部)まで及んでいた可能性がある。東ローマ帝国の歴史家ゲオルギオス・ケドレノス(英語版)は、この国家を「トリュマリアもしくはセルビア」と呼んでいる。ラドイチッチやオストロゴルスキーによれば、東ローマ帝国はこれをゼタと呼んだ。東ローマ皇帝バシレイオス2世が対ブルガリア帝国包囲網の結成にあたりヴラディミルに接近したのも、彼が周辺のスラヴ人諸貴族の中でいかに群を抜いた存在だったかを示している。アナトリアでの戦争も抱えていたバシレイオス2世は、マケドニアの大部分を支配しているブルガリアのツァーリサムイルと戦うべく、ヴラディミルの力を頼った。しかしサムイルはこの報復として997年にドゥクリャに侵攻し、ダルマチアをザダルまで北上して、ボスニアやセルビアをブルガリア帝国に併合した。そしてヴラディミルを降して、傀儡としてこの地を治めさせた。
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