歴史上の変移
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 15:46 UTC 版)
初期の歴史においてヒルピニ族はサムニウム人と区別することは難しい。また彼らの土地は頻繁にサムニウム戦争での表舞台となり、彼らの都市、とくにマレウェントゥムは両軍が武力衝突した地として繰り返し記されているにもかかわらず、意外にも彼らの名は長く続いたこの戦争において一度たりとも言及されていない。このことはしたがって、ヒルピニ族がこの時期において独立した部族というよりサムニウム人の一員として行動し、それが古代ローマの年代記によって、サムニウムという名前でひとくくりされ、個別の部族として隔てることなく記されたと考えられる(また、リウィウスはこのような事を隠し立て誇張することなく記述している)。またこのような事情により、彼らの地域を支配下に置くという目的でローマがベネヴェントを支配下に置いた紀元前268年より前であることは分かっているものの、ローマの支配は彼らを実質支配できた時期がいつ頃なのか特定することは難しい。 第二次ポエニ戦争では一転してヒルピニ族はサムニウム系諸部族から独立した、独自の部族として記述されている。リウィウスはまた、ヒルピニ族をサムニウムと対比さえもさせて言及している。ここでのヒルピニ族は紀元前216年のカンナエの戦い以降、ローマを見限りハンニバルへと恭順した部族として描かれている。しかし彼らの都市であるベネヴェントはカルタゴの手に落ちることはなく、翌年にはヒルピニ族の在住する3つの村落もローマ人の支配下に再び入れられている。紀元前214年には彼らの土地でハンニバルの部下ハンノとローマのティベリウス・グラックスが武力衝突し、紀元前212年には再びカルタゴ勢がカプアを奪取する目的でこの地を支配下に置いている。その後紀元前209年まで彼らは説得されて彼らの村落に駐在していたカルタゴを寝返り、再びローマのもとに走ることはなかった。 次にヒルピニの名が歴史上登場するのは同盟市戦争(紀元前90年)の時である。この戦争で彼らはいち早くローマに対して反旗を翻した。しかし翌年紀元前89年、スッラが彼らの都市のうちで最も力のあるアエクラヌム(Aeculanum)を陥落させると、残存者は恐怖に陥り、ローマへの従属した。彼らは優遇された条件で従属を許されたという。しかしそれ以前においても彼らの中で親ローマ派の一派が多数存在していたと考えられている。実際にアエクラヌム出身でいながらローマのために支配下の住民を編成し、ティトゥス・ディディウスやスッラの下で戦ったミナティウス・マギウス(Minatius Magius、帝政ローマ初期の歴史家ウェッレイウス・パテルクルスの祖先)のような人物もいた。 ヒルピニ族は同盟市戦争末期にはローマの支配下への道を辿り、彼らもまたローマ人との同化を辿っていくこととなった。この戦争での彼らの被害は周辺のサムニウム人に比べて重くはなかったものの、無視できないほどの土地がローマによって没収され、後世のキケロの記述によれば、その領土の多くがローマの富裕層の手に渡ったという。 アウグストゥスの治世下においては、ヒルピニの地は、他のサムニウムの地は第4区として統合されたのと異なり、第2区としてアプリアとカラブリアとともに統合、編成された。またこのような区画分けは後期のローマ帝国においても存続された。この時代にはサムニウムの名はもはや名としての意味合いが強く、より細かな属州へと細分化された。ベネヴェントとヒルピニ起源の集落の、全部ではないにしろそのほとんどがカンパニア属州の中に組み込まれた。リベル・コロニアルム(Liber Coloniarum)という記録には、ヒルピニ起源のものを含む全てのサムニウムの地域がカンパニアに含まれていたと記されているが、現在ではこの記録は誤ったものだろうと考えられている。
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