正教会における「堕落」理解
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 14:52 UTC 版)
「全的堕落」の記事における「正教会における「堕落」理解」の解説
正教会における人間観の基礎の一つについては「神の像と肖」を参照 正教会はアウグスティヌス、ルター、カルヴァンらが主張したような人間の堕落についての理解を採らない(アウグスティヌスは正教会でも聖人ではあるが、人間の「堕落」についての彼の見解は評価されていない)。 正教会においては、人間は生まれた時から、堕落した条件の中で生きざるを得ず、肉体的な弱化と、霊的な病としての意志の弱さ・連帯性の欠如といった結果がその条件からもたらされると理解される。 しかし正教会では罪によって人間がこのように病んでいる事は認めるが、人間の本性が根から堕落し全面的に腐敗を被っているとはしない。ルター主義者が堕落によって人の内なる神の像が失われたとするのに対し、正教会では「神の像が昏昧したのであって絶滅したのではない」とし、「肖」(Likeness)は失われたが「像」(Image)は失われていないと主張する。さらに、正教会においては、自由意志には限界はあるが絶滅してはいないとし、人間の意志は病んではいるとはいえ、依然として善を選択する事が可能であると理解される。 アウグスティヌスによる、堕落の結果「自由意志は失われた」という説、「人間性はその落ち込んでしまった過誤に組み伏せられ、自由を失った」という説に、正教会は同意しない。 正教会はエルサレムの聖キュリロスの言を採る。「(各人は)その行うことを実行する力を持っている。貴方は罪を犯すために生まれてきたのではないからだ。」「悪魔は悪へのほのめかしを行うことは出来る。しかし、貴方を貴方自身の意志に背かせる事は出来ない。」またさらに、西方教会神学の影響が甚だしかった時代に正教の護教的な信仰告白を表したとされるエルサレム総主教ドシセオス2世は、1672年にエルサレム地方公会で認められた『信仰告白』で、「神は、意志する力、すなわちご自身に従うことを意志する力も、従わないことを意志する力も、取り上げられることはない」と断言した。 と同時に、救いは完全に神のみわざであるともされる。どんな「配分」にせよ、神と、その共働者人間それぞれの貢献につき、割合の概念を当て嵌める事は否定される。我々の救いというわざは、全体的に完全に神の恵みのわざであり、かつその神の恵みのわざの内にあって、人間は全体的に完全に自由であり続ける。神の恵みと人間の自由は互いに排斥する事は考えられず、互いに補い合う。ウラジーミル・ロースキイによればこれは「同じ現実の二つの極」と表現される。神の恵みの働きの余地が広ければ広いほど、人間の自由も一層活発に働くとされる。 詳細は「共働」を参照 以上のような正教会の概念は、正教会においてペラギウス主義、半ペラギウス主義とは自認されない。
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