正教会との対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/14 04:17 UTC 版)
1897年、カザンでの第3回全ロシア宣教師大会において、正教会の著名な広報官であるヴァシリー・スクヴォルツォフ(ru)は、トルストイ運動について次のように疑義を唱えている。 異端者にして詭弁家であるトルストイ氏による宗教についての論文には、(中略)宣教師議会の専門家からすれば氏の宗教運動が宗教的、社会的なセクトであることが明らかな記述が散見される。これは政治的にだけではなく、教会からみても有害極まりないものである。 1901年、ロシア正教会聖務会院は「トルストイは正教会とは一切の関係を持たない」と公式に宣言し、トルストイは正教会から破門された。 「ru:Определение Святейшего Синода о графе Льве Толстом」も参照 しかし、階級、宗教、その他の枠組みからの解放というこの運動がトルストイの人生に大きな意味を持っていたことは否定できない。自身は公爵に叙せられていながら、トルストイは農民とともにあった。トルストイはキリスト教の教義を非抵抗の表れと見なし、教会組織はその教えに反するとして反三位一体論(英語版)を支持した。だがトルストイの妻子は彼が聖務会院と最も険悪だった時期にも教会へ通うことを欠かさなかった。
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