正教会における「神の像」・西方教会の全的堕落説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/01 16:35 UTC 版)
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正教会は、堕罪によって人間からは自由意志が失われているとするアウグスティヌスによる理解や、ルターおよびカルヴァンらが主張したような全的堕落といった理解を採らない。一定の範囲のプロテスタントが主張する全的堕落説によれば、人間の本性は根から堕落して全面的な腐敗を被っているとされるが、正教会ではこのような見解は認められない(西方教会における原罪・堕落を巡る主張内容も一様ではなく、温度差を含む様々な見解がある)。 正教会は「神の像は昏昧(こんまい)したのであって絶滅したのではない」「肖は失われたが像は失われていない」と主張する。また人間の誰もがハリストス(キリスト)の救いに手を差し伸べる自由意志を保持しているとする。 高橋保行は、西方教会の人間観を指して「西の原罪説」、正教会の人間観を指して「東の性善説」として対比して言及している(正教会にも原罪観は無い訳ではないが、捉え方が異なっている)。 ただしここにおける「性善説」とは、人が独力で善に向かうことを意味してはいない。正教会は、神の救いに応える人の自由意志と力が、神の像である人からは失われていないという見方を採る。 正教会は、エルサレムの聖キュリロスによる「(各人は)その行うことを実行する力を持っている。貴方は罪を犯すために生まれてきたのではないからだ。」「悪魔は悪へのほのめかしを行うことは出来る。しかし、貴方を貴方自身の意志に背かせる事は出来ない。」との言を採る。
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