橋梁以前・橋梁の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 16:53 UTC 版)
「犀川橋 (長野県)」の記事における「橋梁以前・橋梁の歴史」の解説
近世までは、犀川を渡るには筑摩郡の塔の原から、安曇郡の下押野へ、現在の犀川橋付近を渡し船で渡った。藩政時代には、下押野には川口筏番所が置かれ、時により荷物改めをした。増水時には川を渡ることができなかった。梓川が増水した際には、松本 - 大町間の往来がはるかに遠まわりの雑炊橋まで迂回した記録がある。 1902年(明治35年) - 初めて架橋される。長さ220間(360 メートル)、幅2間(3.6メートル)の木橋で、県費支出により造られた 1936年(昭和11年) - 5つのアーチで構成された幅員5.5メートルの鋼鉄製。犀川右岸から南北安曇に通じる橋として大いに活用された。しかし、車両の増加により、狭隘なことと14トンの重量制限がネックになる 1971年(昭和46年) - 歩行者の安全確保のため、幅員1.4メートルの歩道橋を南側に取りつける 1973年(昭和48年) - 明科町・池田町・穂高町などが、犀川橋改修期成同盟会を結成 1974年(昭和49年) - 調査費が予算化され、橋脚下部調査のボーリングが行われたが、用地買収などに手間取る 1980年(昭和55年) - 全長360メートル、両側に幅員2.5メートルずつの歩道を持つ幅員12.5 mの橋が完成
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