梁京師釈保誌伝とは? わかりやすく解説

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梁京師釈保誌伝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 09:51 UTC 版)

宝誌」の記事における「梁京師釈保誌伝」の解説

また、南朝梁慧皎の『高僧伝巻10には、「梁京師釈保誌伝」として立伝されている。なお、「宝」と「保」とは音通のため、互用される事がある。それによると、俗姓朱氏で、金城郡の人であり、若い時に建康道林寺の僧倹に師事したという。 南朝宋泰始2年466年)から、居所定まらず飲食に時なく、頭髪は数寸に伸ばし、街巷を裸足彷徨する、という、常人異なった行動見られるようになったその手にする錫杖には、鏡・鋏、又は一匹の帛が掛けられていた。 南朝斉の建元年間479年 - 482年)頃より、神異能力を示すようになった何日飲食しなくても、飢えた様がなかった。人に対して予言言動があり、又は賦した詩が、後に予言であったことが判明する、などの事があり、都の人士は、みな彼を信奉した南朝斉の武帝は、そのような保誌危険視し、建康獄舎収監した。それでも、保誌は、獄中市中同時に現れる、という分身の術見せたり、文恵太子や竟陵王が施した食事のことを、獄卒予言したりした。 その他にも、分身た行跡や、人心読んで先んじた行動をした、生魚満腹食した筈なのに、保誌去った後には、ピチピチしたが元の通り泳いでいた、といった異事示した胡諧之らの人物に対しては、「明屈」の返書によって、その死を予言した南朝斉の武帝に対しては、父で先帝高帝地獄錐刀苦を受けている様を見せ以後武帝錐刀刑罰止めさせたという。 南朝梁武帝は、そのような保誌尊崇し、「誌公行跡俗に塗れるも、神異のさまは奥深い。(中略)今より、行道来往は、随意出入し、復た禁ずるを得ることなかれ」という詔を発し、その宮中への出入容認し天監5年506年)には、祈雨の効がなかったので、保誌奨めによって法雲が『勝鬘経』を講ずると、大雪降ったという。 武帝問い対し、「十二識」や「安楽禁」と答えることで、十二因縁教義や、終生修行途絶えさせないことを教えたまた、陳御という人物のために保誌の真形を現したところ、その光相が菩薩像のようであった、としており、後世宝誌像の原型となる説話が、既に同時代の『高僧伝』中で語られていたことが分かる。 「菩薩将に去かんとす」と自らの死を予言して保誌入寂すると、武帝は、鍾山の独龍阜に開善精舎建立し陸倕に銘辞を撰させて塚内に蔵し王筠碑文を撰させて寺門建てた

※この「梁京師釈保誌伝」の解説は、「宝誌」の解説の一部です。
「梁京師釈保誌伝」を含む「宝誌」の記事については、「宝誌」の概要を参照ください。

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