梁京師釈保誌伝
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また、南朝梁の慧皎の『高僧伝』巻10には、「梁京師釈保誌伝」として立伝されている。なお、「宝」と「保」とは音通のため、互用される事がある。それによると、俗姓が朱氏で、金城郡の人であり、若い時に建康道林寺の僧倹に師事したという。 南朝宋の泰始2年(466年)から、居所が定まらず、飲食に時なく、頭髪は数寸に伸ばし、街巷を裸足で彷徨する、という、常人と異なった行動が見られるようになった。その手にする錫杖には、鏡・鋏、又は一匹の帛が掛けられていた。 南朝斉の建元年間(479年 - 482年)頃より、神異の能力を示すようになった。何日も飲食しなくても、飢えた様がなかった。人に対して予言の言動があり、又は賦した詩が、後に予言記であったことが判明する、などの事があり、都の人士は、みな彼を信奉した。 南朝斉の武帝は、そのような保誌を危険視し、建康の獄舎に収監した。それでも、保誌は、獄中と市中に同時に現れる、という分身の術を見せたり、文恵太子や竟陵王が施した食事のことを、獄卒に予言したりした。 その他にも、分身した行跡や、人心を読んで先んじた行動をした、生魚を満腹に食した筈なのに、保誌が去った後には、ピチピチした魚が元の通り泳いでいた、といった異事を示した。胡諧之らの人物に対しては、「明屈」の返書によって、その死を予言した。南朝斉の武帝に対しては、父で先帝の高帝が地獄で錐刀の極苦を受けている様を見せ、以後、武帝は錐刀の刑罰を止めさせたという。 南朝梁の武帝は、そのような保誌を尊崇し、「誌公の行跡は俗に塗れるも、神異のさまは奥深い。(中略)今より、行道来往は、随意出入し、復た禁ずるを得ることなかれ」という詔を発し、その宮中への出入も容認し、天監5年(506年)には、祈雨の効がなかったので、保誌の奨めによって法雲が『勝鬘経』を講ずると、大雪が降ったという。 武帝の問いに対し、「十二識」や「安楽禁」と答えることで、十二因縁の教義や、終生修行を途絶えさせないことを教えた。また、陳御虜という人物のために保誌の真形を現したところ、その光相が菩薩像のようであった、としており、後世の宝誌像の原型となる説話が、既に同時代の『高僧伝』中で語られていたことが分かる。 「菩薩、将に去かんとす」と自らの死を予言して、保誌が入寂すると、武帝は、鍾山の独龍阜に開善精舎を建立し、陸倕に銘辞を撰させて塚内に蔵し、王筠に碑文を撰させて寺門に建てた。
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