梁への反乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/04 05:35 UTC 版)
541年12月、李賁は交州で兵を集め決起した。交州刺史の蕭諮は広州へ逃亡した。梁の武帝(蕭衍)は新州刺史の盧子雄と高州刺史の孫冏に反乱鎮圧を命じた。542年春、李賁は龍編県を占領し、ここを本拠地とした。この反乱勢力は、もともと梁の管轄下であった交州と徳州を掌握した。 542年、南方の疫病に苦しめられた盧子雄と孫冏は、いったん広州に戻った。そして広州刺史の蕭暎と蕭諮に、秋に涼しくなってから再出兵する許可を求めたが拒絶された。仕方なく盧子雄と孫冏は直ちに再出兵したが、合浦まで至ったところで兵の6・7割が疫病に斃れる有様だった。蕭諮から報告を受けた蕭衍は、盧子雄と孫冏が李賁に内通していると疑い、広州で彼らに死を賜った。盧子雄の部下だった周文育や杜僧明らは、この裁定に怒って反乱を起こし、広州の蕭暎らを攻めた。これに対し、蕭暎の部下陳霸先が三千人の精鋭を率いて当たって鎮圧し、捕らえた周文育と杜僧明を自らの部下とした。543年4月、南方のチャンパが李賁の支配地域に侵攻したが、李賁の部下で徳州にいた范修の軍に撃退された。544年1月、李賁は自ら「南越帝」と称し、元号を天徳と改め、国号を「万春」とした。ここから彼は李南帝とも呼ばれている。この年の冬、広州で蕭暎が病没した。これを受けて陳霸先が交州司馬および武平郡太守に任じられた。
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