梁冀誅殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 10:23 UTC 版)
質帝が梁冀により毒殺された後、権勢保持のために梁冀とその妹の皇太后の梁妠によって反対を押しのけ擁立された。即位後は質帝の代と同様に梁冀の専権が続き、梁冀は妹の梁女瑩を桓帝の皇后に立て、一族から7封侯・3皇后・6貴人(妃の位)・2大将軍を輩出し、梁氏最盛期を現出した。梁冀は李固を殺害するなど、反対者に対する弾圧を強めた。 この専横に反発した桓帝は、宦官の単超らの助力を得て梁冀の邸宅を包囲して誅殺、一族もほぼ全員に当たる300名以上が粛清され、多くの者も免職となり、そのために朝廷が空になるほどだったと史書は伝えている。 梁冀粛清後に親政を始めると、功労者の単超を2万戸の侯に封じ、その他の宦官たちに対しても恩賞を与えた。梁冀の専横は排除したが、この政変により今度は宦官たちに権力が集中することとなる。宦官に養子を認め、財産相続を認めたことにより世襲貴族を志向する者も現れるに至った。この時期に権勢を誇った宦官に、魏の太祖曹操の祖父曹騰もいる。
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