梁山之役
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周が多大な戦果を上げたのは江南殲滅作戦の頃、第4大隊23中隊の中隊長を担当していた時だった。彼の所属していた梁山飛行場は、米陸軍航空隊と中華民国空軍が共同使用していたが、1943年6月6日朝、中央からの謁見の為、同基地の所属機を滑走路に整列させていた。100式司偵からの報告でこれを知った日本陸軍は、すぐさま90戦隊の第2中隊(99式双軽8機)、第3中隊(同9機)および護衛の隼によるこの一帯の爆撃を計画した。同日正午、宜昌の日本軍陣地をP-43で偵察していた周は、機影が無い事に異変を感じ、すぐさま梁山飛行場に帰投、そこでこの「不明機8機接近」の報を受けた。当時基地には3人のCATFパイロットが待機していたが、基地側はロッキード・ハドソン双軽と勘違いし、空襲警報を出していなかった。周はそこにあった米陸軍所属の1機のP-40に交換して飛び立った。 その時、99式双軽の編隊8機がCATFパイロットたちからも目視で確認できる程にまで接近していた。しかしほぼ緊急発進に近い状態だったため、編隊の護衛に付くはずだった隼は遅れており、防御は手薄の状態だった。すぐさま攻撃態勢に入った周は、まず2番機(機長:佐々木軍曹)を撃墜、続いて編隊長機(機長:赤沼正平大尉)に損傷を加え、さらに3番機(機長:館野軍曹)を攻撃。しかしいくら攻撃しても墜落しなかったため、周は機体に接近し、操縦席の館野軍曹に投降を呼びかけることにした。しかし逃げられないと悟った館野軍曹は、体当たり攻撃を試みようと周のP-40目掛けて突進してきた。その攻撃を間一髪で回避した周は、そのまま3番機を撃墜。実に滞空時間20分、その距離200kmに及ぶ大激戦であった。 皮肉なことに、この第二中隊の攻撃目標は梁山飛行場ではなく、恩施だった。そのため、梁山飛行場は無傷の第三中隊、および25・33戦隊の隼による爆撃で壊滅的打撃を受けた。しかし、この「梁山之役」における彼の勇戦は、今でも台湾空軍の間で語り継がれている。また、この「2機撃墜、1機大破」の戦果は国民党軍総司令官の蔣介石にも届いており、7月20日には彼自ら梁山に専用機で赴き、周にその勇敢な精神と戦果を讃えて五星(5機撃墜の意)星序獎章および、中華民国軍人において二番目に名誉ある勲章である青天白日勲章を授与した(賞状は国民政府主席林森名義)。中国空軍のエースは全員で13人だが、その中で青天白日勲章を受賞したのは周と高又新だけである。
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