梁山之役とは? わかりやすく解説

梁山之役

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 04:47 UTC 版)

周志開」の記事における「梁山之役」の解説

周が多大な戦果上げたのは江南殲滅作戦の頃、第4大23中隊中隊長担当していた時だった。彼の所属していた梁山飛行場は、米陸軍航空隊中華民国空軍共同使用していたが、1943年6月6日朝、中央からの謁見の為、同基地所属機滑走路整列させていた。100式司偵からの報告でこれを知った日本陸軍は、すぐさま90戦隊の第2中隊99式双軽8機)、第3中隊(同9機)および護衛の隼によるこの一帯爆撃計画した同日正午宜昌日本軍陣地P-43偵察していた周は、機影が無い事に異変感じすぐさま梁山飛行場帰投、そこでこの「不明機8機接近」の報を受けた当時基地には3人のCATFパイロット待機していたが、基地側はロッキード・ハドソン双軽と勘違いし空襲警報出していなかった。周はそこにあった米陸軍所属の1機のP-40交換して飛び立ったその時99式双軽編隊8機がCATFパイロットたちからも目視確認できる程にまで接近していた。しかしほぼ緊急発進に近い状態だったため、編隊護衛に付くはずだった隼は遅れており、防御手薄の状態だった。すぐさま攻撃態勢入った周は、まず2番機機長佐々木軍曹)を撃墜続いて編隊長機(機長赤沼正平大尉)に損傷加え、さらに3番機機長館野軍曹)を攻撃。しかしいくら攻撃して墜落しなかったため、周は機体接近し操縦席館野軍曹投降呼びかけることにした。しかし逃げられない悟った館野軍曹は、体当たり攻撃試みようと周のP-40目掛けて突進してきた。その攻撃間一髪回避した周は、そのまま3番機撃墜。実に滞空時間20分、その距離200kmに及ぶ大激戦であった皮肉なことに、この第二中隊攻撃目標梁山飛行場ではなく恩施だった。そのため、梁山飛行場無傷第三中隊、および2533戦隊の隼による爆撃壊滅的打撃受けた。しかし、この「梁山之役」における彼の勇戦は、今でも台湾空軍の間で語り継がれている。また、この「2機撃墜、1機大破」の戦果国民党軍総司令官蔣介石にも届いており、7月20日には彼自ら梁山専用機で赴き、周にその勇敢な精神戦果を讃えて五星(5機撃墜の意)星序獎章および、中華民国軍人において二番目名誉ある勲章である青天白日勲章授与した(賞状国民政府主席林森名義)。中国空軍エース全員13人だが、その中で青天白日勲章受賞したのは周と高又新だけである。

※この「梁山之役」の解説は、「周志開」の解説の一部です。
「梁山之役」を含む「周志開」の記事については、「周志開」の概要を参照ください。

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