桟唐戸の伝来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/02 18:02 UTC 版)
鎌倉時代に入ると、遣唐使を廃止して以来、途絶えていた大陸との交流が開始され、宋との交易が盛んとなった。また、宋は強大となっていく蒙古の圧迫を受け続け、僧侶の政治亡命が相次ぎ、渡来人が増加していった。平家によって焼かれた、東大寺の再建は、僧重源がもたらした大陸の様式・技術を導入して建築された。仏教建築では、この様式を大仏様(だいぶつよう)といい、のちの禅宗と共に伝わった、新しい仏教建築様式を禅宗様(ぜんしゅうよう)という。 この大陸様式の寺院建築に、新しい建具技術としての桟唐戸が用いられた。桟唐戸とは、四周の框と縦横の数本の桟を組み、桟と框の間に入子板を嵌め込んだ扉である。従来の板桟戸は分厚い板を数枚並べて框の枠を付け、裏桟に釘止めしたものであった。和様の板桟戸に比較して、格段に軽量化が進んだ技術革新であった。この技術革新は、一般住宅には杉障子として応用されている。 重源の大仏様の東大寺開山堂の桟唐戸は、横桟を二本吹き寄せにして、中央に縦桟を配し、桟は山形に鎬(しのぎ)をとっている。禅宗様の桟唐戸は、上部に細い組子の欄間や花狭間を入れ、桟に唐戸面をとるなど、優美な細工を施しているのが特徴である。のちの禅宗様の建築様式は、独特のアーチ形をした曲線を意匠した花灯窓が工夫されている。禅宗建築として代表的な鎌倉の円覚寺舎利殿では、中央は一般的な桟唐戸であるが、両脇の扉が花灯窓を大きく意匠した構えで、内側に桟唐戸を立て込んでいる。正福寺地蔵堂も同様な意匠を採用している。 大陸伝来の唐戸は、奈良法隆寺の一枚板の重厚長大な扉から、鎌倉時代の桟唐戸に至って、建具の軽量化という技術的完成をみるに至った。この時代以降、和様の寺院建築にも採用されはじめ、さまざまな建築の扉の意匠に大きな影響を与えた。
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