桑名藩の存続決定と終焉とは? わかりやすく解説

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桑名藩の存続決定と終焉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 04:24 UTC 版)

桑名藩」の記事における「桑名藩の存続決定と終焉」の解説

明治元年1868年10月9日松平定教城主として桑名城居住することが認められ11月19日には鳥羽・伏見の戦い従軍藩士対す謹慎自宅謹慎切り替えられた(「酒井孫八郎日記」)ことで、別の深刻な事態発生していた。9月25日開かれた新政府会議で、参与である木戸孝允は、桑名藩国元がいくら恭順していても定敬主従抵抗している限りは、他藩や新政府軍兵士心情考慮すれば条理宥免不可能であると述べている。一方で1月からの長きにわたる定教や酒井以下藩士恭順対す寛典は、定教の桑名入城鳥羽伏見新政府軍交戦した藩士自宅謹慎助命確定)への切り替えによって、それ以上与えるものがなくなってしまい、恭順に対して寛典報いるという条理行きづまってしまったのである。さらに桑名藩宥免の遅れは、その城地を預かる尾張藩負担にもなっており、酒井孫八郎箱館から定敬を連れ戻そうとする工作には尾張藩士も加担したとされている。 それだけに、明治2年1869年4月の定敬の投降は、桑名藩人々のみならず新政府としても桑名藩宥免口実出来たことで安堵させた。保寿が親交篤い大久保利通直接桑名藩宥免嘆願したのもこの時期のことである。8月15日桑名藩対す処分決定され松平定教恭順をもって取り潰し免れ所領11万石から6万石減らした上で与えるものとされた。8月23日尾張藩などの兵は桑名から撤退し9月20日には定教を正式に知藩事任じて従五位叙することになった。 定敬は新政府降伏する東京取調べを受け、明治4年1871年3月14日桑名移され明治5年1872年1月6日まで謹慎続けたその間明治4年廃藩置県桑名藩廃藩となり、桑名県安濃津県を経て三重県編入された。

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