桑名藩の存続決定と終焉
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明治元年(1868年)10月9日に松平定教が城主として桑名城に居住することが認められ、11月19日には鳥羽・伏見の戦いの従軍藩士に対する謹慎も自宅謹慎に切り替えられた(「酒井孫八郎日記」)ことで、別の深刻な事態が発生していた。9月25日に開かれた新政府の会議で、参与である木戸孝允は、桑名藩の国元がいくら恭順していても定敬主従が抵抗している限りは、他藩や新政府軍の兵士の心情を考慮すれば条理上宥免は不可能であると述べている。一方で、1月からの長きにわたる定教や酒井以下藩士の恭順に対する寛典は、定教の桑名入城、鳥羽・伏見で新政府軍と交戦した藩士の自宅謹慎(助命の確定)への切り替えによって、それ以上与えるものがなくなってしまい、恭順者に対しては寛典で報いるという条理も行きづまってしまったのである。さらに桑名藩の宥免の遅れは、その城地を預かる尾張藩の負担にもなっており、酒井孫八郎が箱館から定敬を連れ戻そうとする工作には尾張藩士も加担したとされている。 それだけに、明治2年(1869年)4月の定敬の投降は、桑名藩の人々のみならず新政府としても桑名藩宥免の口実が出来たことで安堵させた。椙村保寿が親交の篤い大久保利通に直接、桑名藩宥免を嘆願したのもこの時期のことである。8月15日に桑名藩に対する処分は決定され、松平定教の恭順をもって取り潰しは免れ、所領を11万石から6万石に減らした上で与えるものとされた。8月23日に尾張藩などの兵は桑名から撤退し、9月20日には定教を正式に知藩事に任じて従五位に叙することになった。 定敬は新政府に降伏すると東京で取調べを受け、明治4年(1871年)3月14日に桑名に移され、明治5年(1872年)1月6日まで謹慎を続けた。 その間、明治4年の廃藩置県で桑名藩は廃藩となり、桑名県、安濃津県を経て三重県に編入された。
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