柴田貞太郎剛中(しばたさだたろうたけなか)1823–1877
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文久の遣欧使節の組頭として開港延期の交渉、各国での視察や情報収集の要として役割を果たした。また、慶応の遣欧使節としてフランスに駐在。英仏の政府などとの交渉や、その他の情報収集を行った。国内で外国人の関する全ての出来事に柴田が関わったと言われている。 1833年、小普請となる。1841年、学問所で2度表彰され、1842年、目付となる。 1843年、武術と「学門吟味」で幕府から褒美を受ける。 1858年、外国奉行組頭となり横浜港の開港交渉など欧米各国と交渉に従事。 1862年、遣欧使節の組頭として各国との交渉に直接参加した。また、ヨーロッパでの情報収集の要とされ、当時の西欧の新聞記者達は柴田を「影」と呼んでいる。 1863年、 外国奉行となる。 1864年1月、 将軍上洛にともない柴田は留守居役となる。 1864年4月、 函館に出張、日本の港の鎖に関してロシア総領事のゴスケビッチと鎖港などの交渉にあたる。柴田の日載で徳川幕府が条約締結国に対して、協調外交を行おうとしていたことが窺える。 1865年、慶応の遣欧使節の長としてパリに1年間駐在。柴田は、英仏政府に幕府への軍事顧問を送るよう要請。英国は辞退したが、フランスが了承。これにより、柴田はフランス軍事使節団の招聘を行った。また、この間、柴田は情報収集を行いながら、ロスチャイルド家やヨーロッパ企業と交渉している。部下に国際法を学ばせた。帰国後、兵庫港(現神戸港)の開港業務を担当し、埠頭、外国人居留地、徳川道を建設。 1868年、外国の代表団を前にして、兵庫港開港を宣言。
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