松風荘の建築と庭園
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 03:09 UTC 版)
松風荘のモデルになった園城寺光浄院(国宝、1601年建立)は、『匠明』殿屋集の「昔六間七間ノ主殿之図」に平面が似ていることで知られる。関野克にとってそれは、光浄院が書院造りの正統といえることを意味する。しかし松風荘はその単なるコピーではない。MoMAの中庭は光浄院の規模にはやや小さすぎるだけではなく、周囲は高層建築で囲まれていたので、みすぼらしくならないように配慮する必要があった。またMoMAは池を持つ庭園をつくることを要望した。設計者の吉村は、それらを踏まえつつ、光浄院にはない台所や茶室(大徳寺聚光院枡床席の写し)や厠・浴室、台所を加えつつ、日本の住まい方を示すことを含め、日本の伝統的な住宅のエッセンスを示そうとした。浴室に障子をつけているのは彼のサービス精神のあらわれだろう。また、松風荘の木割や立面は光浄院とは異なっているし、光浄院では唐破風がある側が正面であるのに対し、松風荘では、築地塀を一カ所切ったところから庭越しに望む位置を見所にしている。それは、一の間、二の間と池庭をつなぐ広縁を中心にした空間が重要ということで、光浄院を通しての吉村独自の伝統理解が示されている。それらは現代にも有効な価値であるという意味で、彼にとって松風荘は古建築を写したものではなく、「現代建築」だったのである。吉村は「檜皮屋根の曲線が周囲の高層ビルと強い対照を見せ、白い築地(つきじ)に囲まれた庭が平和な静かな額縁となって効果的だった。庭と建物が一体となって作り出す環境は、西洋には全く新しいもので、日本が数百年も前からこの様な家を作ってきたという事をアメリカ人は驚いている。」と著述している。 1953年6月に作成された図面によると、吉村はMoMAでの庭園には石庭を意図していたが、ドレクスラーの要望に応じて光浄院の庭を典拠とし、濡れ縁の前に池を配置した。庭木は全て現地で調達された。岐阜県飛騨地方からMoMAへ搬入した80個の石は、佐野によって、枯れ滝を中心に池に配置された。築地塀から向月台のある石庭が広がり更に池へと展開していく、約180坪の日本庭園であった。
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