松平忠礼・忠厚兄弟のアメリカ留学に随行の顛末
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第6代上田藩主で幕末期に老中を務めた松平忠固(ただかた)亡き後、息子・忠礼(ただなり 1850年〈嘉永3年〉-1895年〈明治28年〉)は第7代、最後の藩主となる。明治4年、山口玄山は翌年に留学を控えた忠礼の御修行御供を命じられたが、病気のため退職隠居し、息子の慎に業務を継がせる。26才の慎は兄弟と年齢も近く、文武両道であったので用心棒の意味合いもあったであろう。洋行に備え牛乳や牛肉に慣れる練習もして、1872年〈明治5年〉、慎は忠礼と弟の忠厚(ただあつ、1851年〈嘉永4年〉-1888年〈明治21年〉)のアメリカ留学に随行し、ともにニュージャージー州ラトガース大学グラマースクールで学ぶ。 1875年、慎は父玄山の死去によって松平兄弟より早く帰国した。ラトガース大学に進んだ忠礼は1879年、全課程を終えて帰国するが、忠厚はその直前に姿をくらまし、交際中のカリー・サンプソンと結婚してしまう。忠厚は旗本の塩崎松平家を継いでおり、すでに妻がいた。松平家は激怒し、山口慎は間に入り忠厚と何度も書簡をやり取りするが、養家からは離縁、忠礼は送金を断ち、決して復籍を許さなかった。その折の書簡は上田市立博物館に残っている。 アメリカに留まった忠厚は土木技師として働き、その後ニューヨークのブルックリン橋の建設工事やユニオンパシフィック鉄道の主任技師として活躍、測量機器の発明もして各地の新聞にたびたび取り上げられた。コロラド州デンバーで肺結核のため36才で死去。次男のキンジロウ(欽次郎)はメリーランド州エドモンストンの初代市長。
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