東京五輪で栄光の銅メダル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 10:09 UTC 版)
「円谷幸吉」の記事における「東京五輪で栄光の銅メダル」の解説
東京五輪本番では、まず陸上競技初日に行われた男子10000mに出場する。 マラソン選手として日本代表に選出された円谷であったが、10000mへの出場は円谷本人が希望し、陸上総監督の織田幹雄が承認しての出場だったといわれている。当初代表とされていたのは、同年7月の日本選手権で優勝し、オリンピック標準記録も突破した土谷和夫(日本大学)だったが、急遽円谷にエントリーが変更。結果的に土谷はオリンピック代表でありながら、10000mは出場できず、マラソンも補欠に甘んじた。一方、円谷は10000mで6位入賞と健闘。これは日本男子の陸上トラック競技では戦後初の入賞であった。最終日に行われる男子マラソンについては、日本人では君原と当時持ちタイムが一番良かった寺沢徹の二人がメダル候補、と目されており、円谷は経験の少なさのためあまり注目はされていなかった。 しかし、男子マラソン本番ではその君原と寺沢がメダル・入賞(当時五輪入賞は6位まで)争いから脱落する中、円谷だけが上位にとどまり、ゴールの国立競技場に2位で戻ってくる。だが、後ろに迫っていたイギリスのベイジル・ヒートリーにトラックで追い抜かれた。これについては、「男は後ろを振り向いてはいけない」との父親の戒めを愚直なまでに守り通したがゆえ、トラック上での駆け引きができなかったことが一因として考えられている。とはいえ、自己ベストの2時間16分22.8秒(結果的に生涯記録となる)で3位となり、銅メダルを獲得した。これは東京五輪で日本が陸上競技において獲得した唯一のメダルとなり、さらに男子10000mと合わせて2種目入賞も果たして「日本陸上界を救った」とまで言われた。また銅メダルではあったものの、国立競技場で日の丸が掲揚されたのは、メダルを獲得した日本選手では円谷のみであった。 メダル獲得時、円谷は中央大学経済学部(夜間部)の学生でもあった。中央大学は師事した村社講平の母校で、箱根駅伝6連覇達成の記録継続中であった。箱根駅伝に出場することは、自衛隊体育学校との二重登録などの壁のために実現しなかった。
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