東トルキスタン・イスラーム共和国
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「クチャ市」の記事における「東トルキスタン・イスラーム共和国」の解説
1928年7月7日、楊増新は当時の軍務庁長、外交署長であった樊耀南らにより暗殺された。楊増新の腹心であった金樹仁は樊耀南をすぐさま逮捕・処刑すると、新たな新疆省主席兼軍司令となって権力を掌握した。彼はムスリムに対して圧力を加えた政策をおこない、ハミ(1931年)やトルファン(1932年)の反乱を招いた。 1933年2月、タリム盆地南辺のホータンではマドラサの教師であったムハンマド・アミーン・ブグラが秘密裏に組織していた革命グループを動員して蜂起し、漢人官僚を一掃して新政府を樹立した。この政府はホータンの一宗教指導者を「王」に戴き、サービト・ダーモッラーをシャイフ・アル・イスラーム(首長)に、ムハンマド・アミーン・ブグラをアミール・アル・イスラーム(将軍)に任命し、イスラーム法に基づく統治を実施しようとした。この勢力はホータンからヤルカンド、カシュガルへ進軍し、1933年11月、サービト・ダーモッラーによって「東トルキスタン・イスラーム共和国」の成立が宣言された。共和国の総統にはハミの反乱指導者であったホージャ・ニヤーズを推戴し、サービト・ダーモッラーは首相となった。 同じ頃、トルファンを占領していた甘粛のムスリム軍閥である馬仲英はウルムチに迫ろうとしていたが、ウルムチの盛世才がソ連軍を招いて撃退したため(1934年1月)、西へ逃れて東トルキスタン・イスラーム共和国を壊滅させ、ソ連と交渉してソ連に亡命した。共和国の総統であったホージャ・ニヤーズはソ連の使者と接触し、自らが新疆省の副主席に就任するとの約束とひきかえに、首相であるサービト・ダーモッラーを捕縛して新疆省政府に引き渡した。
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東トルキスタン・イスラーム共和国
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「新疆の歴史」の記事における「東トルキスタン・イスラーム共和国」の解説
1933年2月、タリム盆地南部のホタンで、ムハンマド・アミーン・ブグラが蜂起し、漢人官僚を一掃して、ヤルカンド、カシュガルへ進軍し、1933年11月に東トルキスタン・イスラーム共和国を樹立した。 なお、東トルキスタン・イスラーム共和国では漢語を話す回民は漢人と同様に排除され、トルコ系の住民が構成員とされた。 馬仲英軍がウルムチに向かうと、1933年4月12日にクーデターが起こり、盛世才が実権を握った。 盛世才はソ連に援助を要請し、1934年1月、ソ連軍が新疆に進軍、馬仲英軍は敗北する。馬仲英軍は西に向かい、東トルキスタン・イスラーム共和国を壊滅させ、その後ソ連と交渉してソ連に亡命した。 1941年には、アルタイ地区のカザフ遊牧民のケレイ部族出身のオスマンとダリール・ハーンが、ソ連とモンゴル人民共和国の援助をうけ、アルタイ民族革命臨時政府を樹立した。1944年10月にはイリ渓谷のニルカとクルジャで反乱が発生し、11月12日、東トルキスタン共和国が建国された。 この第二次東トルキスタン独立運動にはソ連赤軍が直接参加した。 翌年の1945年、アルタイ民族革命臨時政府と東トルキスタン共和国、さらにタルバガダイのゲリラ隊も合流した。中国では「東トルキスタン共和国」という名称を使用することは避けられ、三区革命と呼ばれる。
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東トルキスタン・イスラーム共和国
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「ウイグル」の記事における「東トルキスタン・イスラーム共和国」の解説
1933年2月、タリム盆地南部のホタンで、ムハンマド・アミーン・ブグラが蜂起し、漢人官僚を一掃して、ヤルカンド、カシュガルへ進軍し、1933年11月に東トルキスタン・イスラーム共和国を樹立した。 なお、東トルキスタン・イスラーム共和国では漢語を話す回民は漢人と同様に排除され、トルコ系の住民が構成員とされた。 馬仲英軍がウルムチに向かうと、1933年4月12日にクーデターが起こり、盛世才が実権を握った。 盛世才はソ連に援助を要請し、1934年1月、ソ連軍が新疆に進軍、馬仲英軍は敗北する。馬仲英軍は西に向かい、東トルキスタン・イスラーム共和国を壊滅させ、その後ソ連と交渉してソ連に亡命した。 1941年には、アルタイ地区のカザフ遊牧民のケレイ部族出身のオスマンとダリール・ハーンが、ソ連とモンゴル人民共和国の援助をうけ、アルタイ民族革命臨時政府を樹立した。1944年10月にはイリ渓谷のニルカとクルジャで反乱が発生し、11月12日、東トルキスタン共和国が建国された。 この第二次東トルキスタン独立運動にはソ連赤軍が直接参加した。 翌年の1945年、アルタイ民族革命臨時政府と東トルキスタン共和国、さらにタルバガダイのゲリラ隊も合流した。中国では「東トルキスタン共和国」という名称を使用することは避けられ、三区革命と呼ばれる。
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