村尾大尉夫人の証言
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 13:53 UTC 版)
東京日日新聞は1937年7月31日付号外「惨たる通州叛乱の真相 鬼畜も及ばぬ残虐」との見出しで報道した。その中で冀東政府長官秘書孫錯夫人(日本人)と一緒に逃げた保安総隊顧問村尾昌彦大尉夫人の証言が紹介された。 保安隊が叛乱したので在留日本人は特務機関や近水楼などに集まって避難しているうち29日の午前2時頃守備隊と交戦していた大部隊が幾つかに分れてワーツと近水楼や特務機関の前に殺到して来て十分置きに機関銃と小銃を射ち込みました。近水楼の前は日本人の死体ママ が山のやうに転子がってゐます、子供を抱へた母が二人とも死んでゐるなど二た眼と見られない惨状でした、私達はこの時家にゐました、29日午前2時頃保安隊長の従卒が迎へに来たので洋服に着かえようとしたところその従卒がいきなり主人に向かってピストルを一発射ち主人は胸を押へ「やられた!」と一声叫ぶなりその場に倒れました。私は台所の方に出て行って隠れていると、従卒がそこらにあるものを片っ端から万年筆までとって表へ行きました、そのうちに外出してゐたうちのボーイが帰って来て外は危ないといふので押入の上段の蒲団のなかにもぐってゐたところさきの従卒が十人ばかりの保安隊員を連れて家探しをして押入のなかを捜したが上段にゐた私には気づかず九死に一生を得ました、家のなかには主人の軍隊時代と冀東政府の勲章が四つ残ってゐました、それを主人の唯一の思ひ出の品として私の支那鞄の底に入れ主人の死体には新聞をかけて心から冥福を祈りボーイに連れられて殷汝耕長官の秘書孫一珊夫人の所へ飛び込み30日朝まで隠れてゐましたが、日本人は鏖殺(みなごろ)しにしてやるといふ声が聞えいよいよ危険が迫ったので孫夫人と二人で支那人になり済まし双橋まで歩きやっとそこから騾馬に乗ったが日本人か朝鮮人らしいと感づかれて騾馬曳きなどに叩かれましたが絶対に支那人だといひ張ってやっと30日午後朝陽門まで辿りつきましたが、門がしまってゐたので永定門に廻りやっと入り30日夜11時日本警察署に入ることが出来ました、冀東銀行の顧問三島恒彦氏が近水楼で殺され冀東政府の島田宣伝主任等も虐殺されたらしく近水楼にゐた日本人は殆どころされてゐるでせう、昔シベリアの尼港惨劇も丁度このやうな恐ろしさであったらうと思ひます。叛乱した張隊長は毎日家に遊びに来て「好朋友(ハオポンユウ)、好朋友」などといひ非常に主人と仲良しだったのにこんなことになるとは支那人ほど信じ難い恐ろしい人間はないでせう、主人の遺骸は必ず私の手で取りに行きます。 — 保安総隊顧問村尾昌彦大尉夫人、東京日日新聞1937年7月31日付号外「惨たる通州叛乱の真相 鬼畜も及ばぬ残虐」
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