杉障子の誕生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/02 18:02 UTC 版)
明かり障子は採光の必要から考案された建具である。採光の為に建物の外回りに使用する事となる。しかし、風雨に曝されると薄紙は破れてしまう。 実際の使用状況を絵巻物で見ると、半蔀を釣って内側に明かり障子をたてている。つまり、下半分の蔀は建て込んだままである。こうした実際の使用状況から、明かり障子の雨があたりやすい下半分に板を張った、腰高障子が考案されるには必然の状況であった。腰高はおよそ80cmで、半蔀の下半分と同じ腰高であったのも、必然であった。南北朝時代の観応二年(1351年)に描がれた真宗本願寺覚如の伝記絵『慕帰絵詞』に僧侶の住房に、下半分を舞良戸仕立てにした、腰高障子が二枚引き違いに建てられているのが描かれている。 藤原定家の日記『明月記』嘉禄三年(1227年)の条に、杉板障子に画を描きお終わったので立てたとあり、寛喜二年(1230年)の条には、妻戸西は略儀によって壁を塗らず代わりに杉遣戸を立てるつもりである、とある。 この障子戸は、黒塗りの框に杉の一枚板を嵌め込だ板戸で、杉障子、杉遣戸、杉板障子、杉戸などと呼ばれていた。杉障子には絵を描き、壁の代用にも用いていたことは、室礼としての襖障子の延長とも考えられるが、主に縁側と部屋との仕切りや縁上の仕切りに使用され、また出窓形式の書院の窓にも使用されていた。 杉障子に描かれる絵は、襖障子と同様に時に唐絵が描かれることもあったが、多くは大和絵の花鳥風月や跳ね馬であった。『法然上人絵伝』の杉障子に画中画として描かれている絵は、芦雁や松、竹、梅等が主である。 杉障子の現存する最古のものは、兵庫県の鶴林寺本堂創建当時のもので、室町時代初期の応永四年(1397年)頃のものである。 杉障子は現在は使用されていない建具であるが、実は歌の中では実に馴染みの深いものでもある。学校の卒業式で必ず歌った送別の歌「蛍の光」である。 「蛍の光、窓の雪、文読む月日重ねつつ、いつしか年も、杉の戸を開けてぞ今朝は、別れ行く。」
※この「杉障子の誕生」の解説は、「板戸」の解説の一部です。
「杉障子の誕生」を含む「板戸」の記事については、「板戸」の概要を参照ください。
- 杉障子の誕生のページへのリンク