木造柳沢吉保坐像
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江戸時代(18世紀)に制作された柳沢吉保の寿像。木造・玉眼・彩色。像高は85.0センチメートル。像内幹部前面材上方の墨書によれば、宝永7年(1710年)11月、吉保53歳の姿を写で、仏師・大下浄慶の作とされる。太刀(銘山城守国重)が付属する。 山梨県甲府市太田町の一蓮寺や韮崎市清哲町青木の常光寺、奈良県大和郡山市の永慶寺(旧地は甲府市岩窪町)には吉保が元禄15年(1702年)に描かせた柳沢吉保画像が伝来し、彫像も肖像画と同様に束帯・冠姿で、右手に笏を持つ。永慶寺の吉保夫妻像とほぼ同一の像容・法量であり、肖像画とも共通性が見られることから、彫像制作の際に吉保肖像が参考にされた可能性が指摘される。 本像は吉保が正徳元年(1711年)7月に制作し恵林寺に奉納した寿像で、恵林寺境内の柳沢吉保公廟所に安置される。前年の宝永7年(1710年)には甲府に永慶寺が落慶しており、8月10日には吉保が帰依した黄檗宗の僧・悦峯道章(えっぽうどうしょう)により開堂されている。隠居後の吉保が恵林寺の東方に宛てた書状では、吉保は自らの寿像が武田家ゆかりの恵林寺に奉納されることに対する喜びが記されており、この文中の寿像が恵林寺の吉保坐像にあたると考えられている。また、吉保が家臣の薮田重守に宛てた書状(豊田家史料)によれば、寿像が安置される堂宇は永慶寺の吉保夫妻像安置の堂宇を模して建てられたという。 正徳4年(1714年)に57歳で死去した吉保は菩提寺である甲府の永慶寺に埋葬されたが、享保9年(1724年)に柳沢氏が甲斐国から大和国郡山へ転封されると、永慶寺も吉保夫妻像ら什物とともに大和郡山へ移転された。これに際して、吉保は永慶寺から恵林寺に改葬される。 本像を制作した仏師・大下浄慶は京都七条仏所の康清の孫で、甲府八日町(甲府市中央)に居住していた。『甲斐国志』によれば、浄慶は恵林寺の武田不蔵尊を制作した人物で、吉保夫妻像は子の次郎右衛門とともに制作したという。翌宝永8年(1711年)3月に浄慶は法橋位に叙せられている。
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