木造柳沢吉保坐像とは? わかりやすく解説

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木造柳沢吉保坐像

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/10 08:44 UTC 版)

恵林寺」の記事における「木造柳沢吉保坐像」の解説

江戸時代18世紀)に制作され柳沢吉保寿像木造玉眼彩色像高は85.0センチメートル。像内幹部前面上方墨書によれば宝永7年1710年11月、吉保53歳の姿を写で、仏師大下浄慶の作とされる太刀(銘山城守国重)が付属する山梨県甲府市太田町一蓮寺韮崎市清哲町青木常光寺奈良県大和郡山市永慶寺旧地甲府市岩窪町)には吉保が元禄15年1702年)に描かせた柳沢吉保画像伝来し彫像肖像画同様に束帯・冠姿で、右手に笏を持つ。永慶寺の吉保夫妻像とほぼ同一像容法量であり、肖像画とも共通性見られることから、彫像制作の際に吉保肖像参考にされた可能性指摘される。 本像は吉保が正徳元年1711年7月制作し恵林寺奉納した寿像で、恵林寺境内柳沢吉保廟所安置される前年宝永7年1710年)には甲府永慶寺落慶しており、8月10日には吉保が帰依した黄檗宗の僧・悦峯道章(えっぽうどうしょう)により開堂されている。隠居後の吉保が恵林寺東方宛てた書状では、吉保は自らの寿像武田家ゆかりの恵林寺奉納されることに対す喜び記されており、この文中寿像恵林寺の吉保坐像にあたると考えられている。また、吉保が家臣薮田重守宛てた書状豊田家史料によれば寿像安置される堂宇永慶寺の吉保夫妻安置堂宇模して建てられたという。 正徳4年1714年)に57歳死去した吉保は菩提寺である甲府永慶寺埋葬されたが、享保9年1724年)に柳沢氏甲斐国から大和国郡山転封されると、永慶寺も吉保夫妻像ら什物とともに大和郡山移転された。これに際して、吉保は永慶寺から恵林寺改葬される。 本像を制作した仏師大下浄慶は京都七条仏所の康清の孫で、甲府八日町甲府市中央)に居住していた。『甲斐国志によれば、浄慶は恵林寺武田尊を制作した人物で、吉保夫妻像は子の次郎右衛門とともに制作したという。翌宝永8年1711年3月に浄慶は法橋位に叙せられている。

※この「木造柳沢吉保坐像」の解説は、「恵林寺」の解説の一部です。
「木造柳沢吉保坐像」を含む「恵林寺」の記事については、「恵林寺」の概要を参照ください。

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