朝倉征伐、尾張下向とは? わかりやすく解説

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朝倉征伐、尾張下向

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 06:29 UTC 版)

斯波義寛」の記事における「朝倉征伐、尾張下向」の解説

文明7年1475年)、9代将軍足義尚謁見し、遠江守護代となった甲斐敏光と共に遠江下向して同国侵攻続けていた駿河守今川義忠軍勢対陣する。翌年塩買坂で義忠敗死させ遠江今川氏対し優位に立つと、今度朝倉孝景平定したばかり越前目を向ける。孝景は越前守護職を提示した幕府との交渉西軍から東軍寝返り西軍掃討しながら越前手に入れた経緯があり、目論みに気付いた父は孝景に抵抗する敗北、義良が代わりに越前奪還目指すうになる後述のように異説もある)。この頃の話として、文明8年1476年9月14日に義良は父が朝倉孝景傀儡にされていることに憤慨し公家甘露寺親長朝倉退治決意打ち明けている。 文明11年1479年)閏9月4日叔父斯波義孝竹王丸のこと、大野斯波家当主)、甲斐敏光二宮氏ら重臣引き連れて京都から越前向けて進発し、越前北部坂井郡の細呂宜・長崎坂井郡丸岡町)・金津で孝景と交戦した異説としてこの時になって父・義敏が朝倉孝景目論見気付き、孝景の下を脱出して義良と合流したともいう。 文明12年1480年)に入って1月10日から朝倉方と交戦し小競り合い経て7月斯波軍は攻勢出て長崎城、金津城、兵庫城新庄城などを落として本江清水山にまで進出した。しかし義良らが優勢だったのは坂井郡のみであり、他の越前諸郡においては朝倉方に押されていた。 孝景の没後文明13年1481年)まで越前諸所合戦繰り広げるが、9月15日合戦で孝景の嫡男・氏景ら朝倉方に完敗し加賀没落越前復旧失敗するこの頃には尾張国内において父の家臣である織田敏定らの活躍により織田敏広ら義廉党が駆逐されたため、義良は越前から尾張斯波武衛家本拠地を移すべく、京都から尾張下向することを決意する文明15年1483年3月19日尾張清洲城入城しここを守護所定め織田敏定尾張守護代、また甲斐敏光遠江守護代にそれぞれ任じて今川対す守り固めた越前においても4月30日ひとまず朝倉氏景越前守護代に任ずるなど、朝倉氏和睦している。文明17年1485年4月将軍義尚より改め偏諱賜り、『義寛』と名乗ると、8月には前将軍義政執奏により従四位左兵衛佐任じられ同年7月出家していた父の跡を継いで名実共に武衛当主となった幼少期続いて二度目家督継承となる)。また、義寛は一色義直の娘を妻に迎えているが文明18年1486年)には嫡男となる斯波義達儲けていることから、遅くてもこの時期までには婚姻成立していたと考えられている。

※この「朝倉征伐、尾張下向」の解説は、「斯波義寛」の解説の一部です。
「朝倉征伐、尾張下向」を含む「斯波義寛」の記事については、「斯波義寛」の概要を参照ください。

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