書くことについて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 04:20 UTC 版)
「話すこと」に関する議論が終わり、続いて「書くこと」についての議論に移る。 ソクラテスはまず古来から伝わる物語という体裁でエジプトにまつわる創作話を披露する。テーバイ(テーベ)に住んでエジプト全体に君臨していた神の王タモス(アモン、アンモーン)の下に、発明の神であるテウト(トート)がやって来て、様々な技術を披露した。「文字」を披露した時、テウトはそれが知恵を高め、記憶を良くすると説明したが、タモスはむしろ人々は「文字」という外部に彫られた印(しるし)に頼り、記憶の訓練を怠り、自分の内から想起することをしなくなるので、かえって忘れっぽい性質が植え付けられてしまうこと、また「文字」によって親密な教えを受けなくても「物知り」になれるため、上辺だけのうぬぼれた付き合いにくい自称知者・博識家を生むだろうと指摘する。 ソクラテスは「書かれた言葉」というものは「絵画」と似ていて、何か尋ねてみても沈黙して答えず、また内容を理解できない不適当な者の目にも触れてしまうし、誤って扱われたり不当に罵られても身を守ることができないものであり、せいぜい自分が老いた時や自分と同じ道を進む者のために蓄えておく「覚え書き」「慰み」程度にしかならないものだと指摘する。 そしてそれと対比されるのが、「書かれた言葉」と兄弟関係にあり正嫡の子とも言うべき「ものを知る者が語る生命を持った言葉」「学ぶ人の魂の中に知識と共に書き込まれる言葉」であり、それはちょうど農夫が適した土地に種を蒔いて時間をかけて育てていくように、「ディアレクティケー」(弁証術・問答法)の技術を使ってその内部、魂の中に「正義」「善」「美」の知識と共に植え付けられるものであり、その中の種を育て、継承し、不滅のままに保っていくものであると述べる。 こうして全ての問答が終わり、これまでの内容をおさらいした後、ソクラテスは「長い時間をかけて文句をひねくり返し組み立て書き、その作品以上のものを自己の中に持ってないような者」はそれらの書き物からつけられる「詩人」「作文家」「法律起草家」などの名で呼ばれるのがふさわしいが、他方で真実のありようを知り自己の魂の中に書き込まれている知識・言葉に基づいて語ることができる者はその真剣な目的から採って「愛知者(哲学者)」などの名で呼ぶのが適切だと述べる。 最後にソクラテスが当時まだ若かったイソクラテスが偉大になることを予言しつつ、土地の神々に祈りを捧げて2人はその場を去る。
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