昭和初期の矢倉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 14:37 UTC 版)
宗歩がすばらしい矢倉の新感覚をみせたのに後続が絶え、幕末から明治・大正期までは相掛かりの全盛時代となった。すでに振り飛車は影をひそめ、つづいて矢倉将棋も全くの低迷期に入った。幕末から明治までは将棋界の衰逸期であったし、当時の人びとは江戸時代の模倣として、相掛り戦一本で戦いつづけている。戦法には時代の世相の反映もあり、流行ということもあるが、この長い期間の矢倉の低迷は、そのまま棋界の衰徴を物語るものであった。ただ将棋師は、いつかは低迷する暗雲をはらいのけて、未知の世界を切り拓いていく。それが、天才児の出現によって大正の盛時を作り上げていったのである。 江戸時代に指されていたころは矢倉はあくまで居飛車戦で行う囲いの一つであって相掛かりからの流れで矢倉に組むケースがほとんどであった。そうしてまれに指されていた矢倉は、明治から戦中まで、ほとんど姿を消していた。 昭和期に入り、土居市太郎名誉名人が、天野矢倉を改良して土居矢倉を創始した。 1940年(昭和十五年)6月25・26・27日の第二期名人戦第三局は、対局場の名を冠して「定山渓の名局」と喧伝されるが、序盤は当時流行の相掛りコースからスタートし、先番の土居は角交換に出て相矢倉模様に局面を導いた。図1-12は天野矢倉の踏襲であり、同時に土居矢倉への創造である。厚みとさばきを特徴とし、敗者の木村義雄十四世名人は「敗局の名局」と讃えるが、名局かどうかよりも、矢倉将棋の復活に寄与したという点で、大きく評価される一局である。
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