春の海まつすぐ行けば見える筈
作 者 |
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季 語 |
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季 節 |
春 |
出 典 |
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前 書 |
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評 言 |
これは、平成元年4月、大牧広主宰の「港」が創刊された時に掲載された句である。歳時記に記述されているように、春の海は水面が日差しにきらきらと輝き明るく穏やかである。このような景を結社「港」のあるべき姿に譬え詠んだのであろう。自分の信じる道を素直に進めば、望む景としての結社「港」が実現するに違いないという並々ならぬ覚悟のほどが読み取れる。特に中七下五の「まっすぐゆけば見える筈」の部分は、松下幸之助の「道」の次の一節を彷彿する。『道をひらくためには、まず、歩まねばならぬ。心を定め、懸命に歩まねばならぬ。それがたとえ、遠い道のように思えても、休まず、歩む姿からは、必ず新たな道がひらけてくる。深い喜びも生まれてくる。』これは松下幸之助とは異なるが、岐阜の巡査を辞め、上京して日本橋にメリヤス問屋を開業した父親が、不運にも関東大震災によって店舗を全壊し、生計を立てるため荏原区に移り八百屋をはじめたが、空襲による類焼防止のため、ここから強制的に品川区豊町に転居させられ、おまけにそこにB29の焼夷弾が落下、焼跡に掘立小屋を建てて生活という2重3重の不幸を背負った辛苦の最中に幼少を過ごし、加えて、10代に両親を亡くし、苦労した体験から得られた人生観からくるものなのであろう。この体験も能村登四郎との出会いにより、俳人としての個性を磨き上げ、独自の俳句の世界を構築し花が咲いた。因みに、平成20年4月に「港」は二十周年を迎える。春の海が楽しみである。 大牧広氏は昭和6年4月に東京市荏原区に六人兄弟の五番目として生まれた。昭和46年「沖」の能村登四郎に学ぶ。「空稲架に老人が立つそれが兄」(『某日』)など、「俳諧味あふれる作風」「昭和一桁生れの市井人としての哀愁が漂う」(遠藤若狭男)と評価されている。 |
評 者 |
野舘真佐志 |
備 考 |
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