映画への傾倒
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 05:47 UTC 版)
「カール・テオドア・ドライヤー」の記事における「映画への傾倒」の解説
ドライヤーはその後、ジャーナリストに転身。新聞に演劇評などを寄稿した。また、当時世間の大きな話題となっていた航空機に興味を持ち、報道記事だけでなく自らも気球の飛行に積極的に参加した。この時期に『怒りの日』や『奇跡』の原作となった戯曲の舞台を演劇評論家として鑑賞した。また、裁判記事も執筆し、毎日のように裁判所に通った。これによって中産階級の人々を知るようになった。 ドライヤーの関心は次第に映画へと傾き、ジャーナリストとして映画批評を執筆する傍ら、デンマークの映画会社ノーディスク・フィルムで働くようになった。ここで編集とサイレント映画の字幕の挿入を行い、映画技術を学んだ。これらの仕事についてドライヤーは「その仕事はまさに、素晴らしい学校のようなものでした。(中略)私はその学校で五年間学んだのです。私は今では自分の映画を、撮影がなされるつど、頭のなかで編集してゆきます。編集は演出の一部分をなしているのです。」と述懐している。その後、脚本の執筆も行うようになり、1918年に第1作『裁判長』の製作に着手。翌1919年に同作を完成させた。
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