明治-大正期の課題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 20:58 UTC 版)
開国の流れを受けて躍進する丹後ちりめんであったが、原料である生糸が輸出優先で生産されていたために不足して高騰し、国内消費を目的に量産された丹後ちりめんは、生糸のくずやくず繭を原料とする紡績絹糸や、旭織のように撚らない糸を緯糸とする、ちりめんのようにみえる織物、絹糸以外に綿糸も用いた綿ちりめんなど、安価な織物を生産する粗製濫造傾向に陥ることにもなっていた。また、1876年(明治9年)に豊岡県が廃止されて丹後地方が京都府の一部となると、府は丹後側に何の連絡もなく、膝元の西陣機業をひきたてるため、丹後地方の機業の進出を抑制する「丹後職工引立規則」を定め、丹後ちりめん業界の自由な活動は規制された。この規則は、丹後側の反対運動により、その後廃止されている。 1882年(明治15年)頃からは、とくに不足していた生糸を使用した本ちりめんは、仲買業者の介入により生地を精錬加工せずに京都に出荷するようになった。これは、京都で精錬後にキズがあった場合すべて丹後側の「難もの」として戻され、大きな損失を生むことにつながった。なかには、精錬後にはじめて見つかる織難を悪用し、欠陥がなくてもあったと称して問屋が値引きや返品を迫る例もあった。一方で丹後の縮緬業者のほうでも、重いほうが値が高くなることから、出荷する精錬前の縮緬に砂糖水をかけたり、生糸に糊をつけるなどの不正増量が横行した。 ちりめんを半製品状態で出荷する下請けの不利を指摘し、丹後機業の自立を促したのは、1914年(大正3年)に丹後地方を視察した農商務省の岡実商工局長である。これを受けて翌1915年(大正4年)、残っていた精錬業者を中心に丹後縮緬国練期成同盟会が結成され、粗製濫造や不正な増量などを是正し品質を保証するべく、丹後で精錬まですませてから出荷する手立てが講じられた。西陣は政友会を通じて執拗にこれを阻止しようとし、また丹後の縮緬業者のほうでも精錬後のちりめんは貯蔵が困難であることや、京都からの大量取引や見込み買いがなくなることへの危惧から反対する者もいたが、ついに1921年(大正10年)、与謝郡・中郡・竹野郡の組合が合併して丹後縮緬同業組合が発足した。1928年(昭和3年)には丹後一帯で5か所の精錬工場と倉庫を建設、丹後地方で精錬する「国練」を実施し、組合が検品したうえで出荷することが可能になった。
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