昇仙峡を描いた絵画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 09:29 UTC 版)
江戸時代の甲斐国は甲州街道をはじめとする諸街道が整備され、伴い多くの文人画家が来訪し作品を残している。御嶽昇仙峡は甲府城下から近在であり、天保5年(1834年)に御岳新道が開発された後は来訪が容易となり、多くの画家が訪れた。天保13年(1842年)には甲府城下に居住したの南画家の竹邨三陽(たけむら さんよう)が『仙嶽闢路図』を描き、覚円峰などの景勝地を紹介し、出版された。これが契機となり昇仙峡は景勝地として知られるようになった。 明治13年(1880年)には三陽の弟子である三枝雲岱(さいぐさ うんたい)が明治天皇の山梨県巡幸に際して『御嶽新道図』を献上している。雲岱は昇仙峡を画題とした作品を手がけているほか、引き続き景勝地としての昇仙峡を紹介した出版物が数多く製作された。また、明治期には女流南画家の野口小蘋が甲府柳町(甲府市中央)の商家・野口家に嫁ぐ。野口家の十一屋コレクション(山梨県立美術館収蔵)や甲府商家・大木家の大木家資料(大木コレクション)には多くの小蘋作品が含まれている。小蘋自身は山梨に滞在しているものの昇仙峡を訪れたかは不明であるが、明治26年(1893年)には昇仙峡を描いた『甲州御嶽図』を製作している。 文人画家の富岡鉄斎は1875年(明治8年)・1890年(明治23年)に山梨県を旅し、富士山へ登山するなど山梨各地の名所を訪ね、作品にも描いている。鉄斎も野口小蘋と同様に甲府の野口家に滞在しており、十一屋コレクションや大木家資料には鉄斎作品が多く含まれている。鉄斎は二度の山梨旅行でともに金櫻神社参詣を行っており、明治8年の『富岡鉄斎日記』では昇仙峡の奇景を記している。ただし、2009年時点で鉄斎が昇仙峡の風景を描いた作品は確認されていない。 明治36年(1903年)には中央線開通により昇仙峡への利便性が高まったことにより観光地として知られるようになる。明治後期には東京美術学校講師の鶴田機水が水墨画『密画金溪図』を手がけている。これは、昇仙峡の奇岩や溪谷から受けた心象を場所を確定した写実的な描写ではなく、自身の想像力により近接拡大して描いている。大正期には河内雅溪が『昇仙峡之図』において写実的な山水画としての昇仙峡を描いている。 大正4年(1915年)には日本画家の近藤東来が『覚円峰図』を描いている。東来は諸国を遊歴して甲府で死去しており、『覚円峰図』は甲府商家の大木家資料(大木コレクション)として伝来している。昭和期には昭和3年(1928年)に水墨画家の近藤浩一路が『覚円山雨』を描いており、戦後の昭和30年代には近藤乾年が『覚円峰』を描いている。 日本画家の片岡球子は1957年(昭和32年)に歌舞伎役者・七代目尾上梅幸を描いた『尾上梅幸』において、背景の岩場を昇仙峡に取材して描いている。
※この「昇仙峡を描いた絵画」の解説は、「昇仙峡」の解説の一部です。
「昇仙峡を描いた絵画」を含む「昇仙峡」の記事については、「昇仙峡」の概要を参照ください。
- 昇仙峡を描いた絵画のページへのリンク