昇仙太子碑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 10:24 UTC 版)
『昇仙太子碑』(しょうせんたいしひ)の建碑は聖暦2年(699年)。武則天は国を周と号したことから古代の周の太子の廟を修復し、これを記念して自ら撰文し、自ら書し、建碑した。碑石は426cm×160cmと非常に大きな立派な碑で、河南省洛陽市偃師区の仙君廟(せんくんびょう)に現存し、保存もよい。 碑額は飛白体で、「昇仙太子之碑」の6字を2行で入れ、碑文の33行は行草体で書かれている。ただし、首行の「大周天冊金輪聖神皇帝御製御書」と末行の「聖暦二年歳次己亥六月甲申朔十九日壬寅建」だけが楷書体で、この楷書部分だけは薛稷によって書かれていることが碑陰の書刻によって知られている。 この碑は、碑文に草書を用いた碑として、また女性の書碑として最初のものである。碑文に行書を用いた最初の碑は太宗の『晋祠銘』であり、この『晋祠銘』の碑額も飛白体で書かれていることから、これを意識してのことと考えられる。武則天の書は、太宗の影響を受けて堂々たるものであり、同じく太宗を学んだ高宗の書よりも遒勁である。 比田井南谷は武則天の書について、「よく古典を習って、筆力もあり、実力はかなり評価すべきであるが、結体・用筆ともに変化に乏しく、技巧的な表現に留まっている。また俗な性格を表現しているので格調が下がり、通俗的なおもしろさの範囲を出るものではない。(趣意)」と述べている。
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