旧駅跡地の利用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 14:01 UTC 版)
「ハイデルベルク中央駅」の記事における「旧駅跡地の利用」の解説
1955年5月にハイデルベルク中央駅が移転したことで、24ヘクタールの鉄道用地が空いた。市議会はナチス時代からの計画を見直して1950年代初期に基本計画を策定した。計画には、70 m幅に及ぶ大規模な東西方向の連絡道路、クーアフュルステンアンラーゲが含まれていた。空いた用地のおよそ60パーセントが道路と広場の建設に用いられた。カール・ナインハウスは、1945年に市長を解任されてから7年後に再び市長に選出され、1955年に「新しい道路が短期間に多くの店の並ぶ活気のある場所となる」という期待を述べた。そして「町の特徴を一目で表す、名刺のようなものとなるだろう」とした。 1956年7月に、クーアフュルステンアンラーゲを通って新しい駅まで路面電車が開通した。新しい道路の建設はゆっくりと進み、特にハイデルベルク地方裁判所(ドイツ語版)を含む公的機関の建物が並んでいった。1960年代初めに、かつての中央駅のあった場所にメングラーバウ(ドイツ語版)という建物が建てられ、これはこんにちにおいてもハイデルベルクにおいて唯一の高層住宅である。新しい駅前広場はヴィリー・ブラントにちなんで名づけられたが、それに向かって1990年に化学同業協会のビルが建てられた。印刷機の会社、ハイデルベルク印刷機械(ドイツ語版)の事務所および訓練センターのビルが2000年に、Sプリンティングホース(ドイツ語版)の彫像の前に建てられた。1993年5月からは、駅舎のすぐ北側に路面電車の停留所が設置され、ここにはオーバーライン鉄道(ドイツ語版)の列車も発着する。このためにオーバーライン鉄道の線路がヴィープリンゲンへ向けて敷設され、中央駅において路面電車網と接続された。 クーアフュルステンアンラーゲの都市開発については、2010年には冷厳としたものだと評されている。店舗やカフェ、レストランなどが並ぶという期待は外れてしまった。交通量の多い通りは歩行者には魅力がなかった。地元紙「ライン=ネッカー=ツァイトゥング」は1995年に、駅は「西側に離れて少し遠すぎ、期待されたような強い引力がなかった」とした。期待されていた、ベルクハイムとヴェストシュタットの街区の統合は失敗し、クーアフュルステンアンラーゲに建てられた公的機関の建物は「とても味気ない」とされた。2011年にはクーアフュルステンアンラーゲ沿いの公的機関の建物の解体が始まった。今後これらの建物は住宅で置き換えられることになっており、これらの地区がもっと魅力的になるようにしようとしている。
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