旧内幸町一丁目
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 23:28 UTC 版)
現在この区域は日比谷通りによって東西に分断され、東側が内幸町一丁目に含まれ、西側が二丁目となっているが、江戸時代にはこの通りは日比谷公園南端の内幸町交差点で止まっており、一つのまとまった街区であった。 寛永期には、東から順に陸奥盛岡藩南部家、肥前唐津藩寺沢家、陸奥会津藩加藤家、日向飫肥藩伊東家、肥後人吉藩相良家の各上屋敷が存在した。このうち、東部の南部・寺沢・加藤の三邸は正徳3年(1713年)柳沢吉保の手に渡り、以降大和郡山藩上屋敷となった。また、相良邸は石見津和野藩亀井家上屋敷となり、東から柳沢邸、伊東邸、相良邸として幕末まで続いた。 明治元年(1868年)、柳沢屋敷は東京府に転用された。明治27年(1894年)有楽町に移転後、夏目漱石が入院したことで知られる長与胃腸病院や、仁壽生命保険本社、東京倶楽部などがあった。 伊東邸は島津家に渡った後分譲され、都新聞、病院や法律事務所が置かれた。
※この「旧内幸町一丁目」の解説は、「内幸町」の解説の一部です。
「旧内幸町一丁目」を含む「内幸町」の記事については、「内幸町」の概要を参照ください。
- 旧内幸町一丁目のページへのリンク