旧旧山高
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 01:21 UTC 版)
「山口高等学校 (旧制)」の記事における「旧旧山高」の解説
1886年(明治19年)公布の中学校令に基づき、第一高等中学校(東京)、第三高等中学校(大阪、後に京都へ移転)に次ぐ全国3番目の高等中学校として(明治19年)11月山口高等中学校(後に高等学校)が設立。全国で7校設置された高等中学校の一つであり、1887年(明治20年)12月設立鹿児島高等中学造士館と並んでナンバースクールでない特例的存在であった(1894年(明治27年)「高等学校令」公布により従来の「高等中学校」を「高等学校」と改称)。藩校(明倫館)からの流れをくむ学校であり、設立の背景には地元出身者・子弟を高等中学校から帝国大学へ進学させることにより官界・政界へ人材を送り影響力を保持しようとした藩閥勢力の意向があったとされる。 修業年限3年の本科(高等科)および修業年限3年の予科(尋常科)を設置し、さらに山口・萩・豊浦・徳山・岩国の旧藩校を基礎とした5つの中学校(4年制)を「予備門五学校」とした。このような事情により学生のほとんどは地元の山口県出身者によって占められた。 旧藩主(毛利元徳)を会長とし地元有力者を中心とする防長教育会が経費を負担していたが、高校の入学者選抜制度が各校独自の選抜から全国共通選抜に変わり他府県出身者が増加したため運営を全面的に国へ移管した。 さらに1905年、実学教育の拡充を図っていた文部省により、旧旧山高は山口高等商業学校へ転換され、松本源太郎山口高等学校第4代校長は、そのまま山口高等商業学校初代校長に就任した。また、旧旧山高の校舎、亀山校地のほか、寄宿舎および寮歌「花なき山の」も山口高商に継承され、寄宿舎は山口高商時代に「鳳陽寮」と命名された。 高商転換後の大学(旧制大学)昇格運動については山口高等商業学校を参照のこと。 第七高等学校造士館 (旧制)とともに旧藩の肝いりで創立された国立学校である。
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