日章旗抹消事件
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1936年(昭和11年)のベルリンオリンピックにおいては、大日本帝国外地の朝鮮出身の孫基禎が日本代表選手として男子マラソンに出場し優勝した際に、日本統治下の京城(現在のソウル)で創刊された東亜日報は日章旗を抹消した写真を掲載してそれを報じ、11か月の停刊処分を受けた(日章旗抹消事件)。
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日章旗抹消事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 07:11 UTC 版)
大会直後に朝鮮の新聞「東亜日報」に胸の日の丸が塗りつぶされた表彰式の写真が掲載され、当時の朝鮮総督府の警務局によって同紙記者の逮捕・発刊停止処分が下された。また社会部長だった玄鎮健も逮捕された。このため、10月になって帰国した孫には警察官が張り付き、朝鮮内で予定されていた歓迎会も大半が中止された。 孫自身は当時より民族意識が強く、世界最高記録樹立時の表彰式でも「なぜ君が代が自分にとっての国歌なのか」と涙ぐんだり、ベルリン滞在時には外国人へのサインに「KOREA」と記したりしていた。このうち後者は当時の特別高等警察によってチェックされて「特高月報」に記載されており、帰国後に「要注意人物」として監視を受けることにも繋がった。そのため、翌年明治大学専門部法科に進むが競走部への入部は認められなかった。卒業後、朝鮮陸連の紹介で京城の朝鮮貯蓄銀行本店に勤務した。 一方で戦後に、日本の陸上関係者や戦前親しくしていた友人への手紙などには、日本語読みのローマ字署名を付けていた[要出典]。
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