日窒コンツェルンの特徴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 06:51 UTC 版)
「日窒コンツェルン」の記事における「日窒コンツェルンの特徴」の解説
野口が日窒コンツェルンを成長させた手法にはいくつかの特徴があった。 一つ目は、当時の先進技術を活用したことである。当時最新の化学工業技術を特許と共にヨーロッパから導入した。当時の野口は希少な知識を有する技術者であった(当時東京帝国大学電気工学科の卒業生は1~4人、野口の年次に初めて10人を越す在籍者となった)。また事業確立のためフランク・カローの特許を入手する際には、三井、古河などの既存大財閥との競争になったが、シーメンスに勤めた人脈を最大限に活用できたことも大きかった。シーメンスとの友好関係はその後も変わらず、ドイツからの技術導入とシーメンスの日本での発電事業・電力応用設備市場拡大の相互依存関係を続けた。 二つ目は、電気化学の工業化事業モデルを確立したことである。電気化学では、ダム建設による水力発電により電力を確保し、大量に供給される電力を利用して電気化学工場で肥料、火薬を製造する。電力が安いほど競争力が得られることから、大規模化のメリットを享受しやすい構造を有しており、朝鮮半島北部の豊富な水資源、特に鴨緑江に注目して朝鮮へ進出することで、装置産業としての効率を上げることができた。 三つ目は、政商としての側面である。窒素肥料は近代化の遅れた日本の農村ではあまり需要は伸びず、日露戦争の反動不況から経営危機に直面したが、第一次世界大戦の勃発により火薬の原料となる硫安、チリ硝石の需要急増で大きな利益を得ることができた。また当時朝鮮総督の宇垣一成や軍関係者は朝鮮半島の軍事工業基地化を目指しており、日窒には好意的であり、様々な融資を引き出すことができた。更に水豊ダム建設などの巨大プロジェクトにおいては、満州国政府、朝鮮総督府との国策的な共同事業として事業資金についても便宜が図られるなどした。
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