日稼人足
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 03:54 UTC 版)
日稼人足は比較的容易に仕事が得られるために、港の荷役作業場周辺に居住した。親方が運営する「労働部屋」に「部屋人足」として住み込む者や、木賃宿・棟割長屋に家族と生活する者などもいた。明治30年代初頭辺りまでには、神戸港周辺にこうした「日稼人足」が数多く居住するに至る。古湊通には多くの木賃宿が集結し、沖仲仕人足の供給源となった。また上橘通などの長屋には、夫は仲仕仕事に出て妻がマッチの箱貼りの内職をする世帯が多く見られた。 こうした木賃宿や長屋は、幕末以来度々大流行したコレラを初めとする伝染病の温床とみなされ、衛生の観点からの対策を求められるようになった。当時の神戸は海港都市の宿命として、長崎や横浜とともにしばしばコレラ流行の発信地となっていた。また、地域経済の発展に伴い、市の中心部を商業地域として整備すべきとの意見が大勢を占めるに至り、木賃宿、長屋はふさわしくないとする意見が多くみられるようになり、明治30年代以降、新たに神戸に上陸したペストへの恐怖とも相俟ってスラム対策がさらに強化されていく。
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